信濃・美濃の旅行記



前回の旅から、4年も経ってしまいました。
その間にインターネットは大普及し、「私が見聞きしたことをHP化しなければ」という義務感はなくなりました。
大抵のことは誰かしらが詳しくネットに書き込んでいます。
このサイトは、当初の日記・雑記のような旅行記に戻るでしょう。

■長野県庁■
三選を阻まれた田中康夫県知事が作ったガラス張りの知事室を見れるのはあとわずかです。
でも、とくに見なくても、と思いました。
県庁の一部の駐車場は、休日には一般解放されます。


■善光寺・戒壇巡り■
本堂下に、暗闇を体験する戒壇巡りというのがあります。
あちこちで「真っ暗で何も見えない」と紹介されていますが、
暗闇に目が慣れると私は、うっすらと見ることができ、前にいる人が止まったのか歩き出したのかがわかりました。
でも、道筋はわからないので、右手の壁を触りながら巡りました。
途中には「極楽の錠前」というのがあります。
壁を触っていれば、突起状のものが壁に現れます。
それに従って場所を探れば、すぐわかると思います。


■長野市立博物館・川中島の合戦■
武田信玄と上杉謙信が戦った、川中島の合戦で有名な場所に建っています。
しかし、このあたり一帯で戦いが行われた、というしかわからないそうです。
戦いの様子も、今伝えられているものが史実がどうかも不確実です。
武田方の軍学書『甲陽軍鑑』に記された内容と、紀州徳川方に伝わった「北越軍記」とは内容が異なっています。
その紀州で見つかった「紀州本川中島合戦図屏風」についての解説がありました。

紀州本 川中島合戦図屏風(解説)
http://www.azumino.matsumoto.nagano.jp/GALLARY/kawanakajima_gassenzu/kawanakajima.html


■長野市立博物館・竹原笹塚古墳■
市内松代町にある竹原笹塚古墳は、遺体を葬る石室は横穴式構造、天井石は両手を合わせたような合掌形になっています。
墳丘は径12m前後の積石塚円墳と考えられています。
合掌形石室は全国的にも特異な形態で、長野盆地に集中してみられます。
特に長野市南部の千曲川右岸に立地する大室古墳群では約500基の古墳が群集し、そのうちの大部分が積石塚古墳で、合掌形石室が20基余りみられます。
こうした積石塚や合掌形の類例が朝鮮半島にみられることより、馬の飼育に係わる渡来系集団の墓ではないかと考えられていますが、今後の研究課題といえます。
色々な特性を有する竹原笹塚古墳は、長野盆地を代表する古墳の一つです。

18年9月には、石積みによる六角墳が発見されたと報道されていました。


■松代象山地下壕■
終戦記念日前後のためか、内部を説明してくださるガイドに従って見学しました。
屋外では汗だくだったのが、内部では寒いくらいでした。

最近私は、トンネルが嫌いです。
自動車道のトンネルを走っているときも、気持ち悪くなります。
排ガスのせいか、映画「ドラゴンヘッド」を見たときのインパクトからか、
トンネルが崩落するイメージがついて回っていて怖いのです。

この地下壕も、たくさんの人が亡くなった場所ですので、霊的に心配でしたが、とくに感じませんでした。
おそらく、観光化されている場所だからでしょう。

ガイドとともに一緒にいた見学者は、70歳代の地元の男性と、50歳前後の男性とその家族、40歳代の男性でした。
その70歳代の男性がこの場所を見学するのは初めてだったとのことでしたが、
この地下壕に関する地元の出来事から小泉首相の批判まで、持論をとどろかせていました。

強制労働に連れて来られた朝鮮の方が終戦まで生き延びた後、地元農家の牛を手際よくかっさらって朝鮮に帰ったこと、
これまでに朝鮮の方と話をした中で、朝鮮の方の被害者感情と、現日本政府の無責任さをはじめとする、国家間の意識のギャップ、
朝鮮の方は、強制連行と拉致は同じと解釈しているが、拉致は国家を転覆させるための手段である、
小泉は経験していない戦争について、わかりっこない

とうとうと話す中で、50歳前後の男性も持論を話し始め、ガイドでさえも収拾がつかなくなる様でした。

テレビ朝日の朝まで生テレビが始まった頃、私も論破することが好きでしたのでよく見ていました。
しかし、人は、自分が経験した範囲のことしか理解できないもので、それを相手に理解させることの難しさ、または、相手を理解することの難しさを強く感じて以来、話を聞くだけにしています。


■真田氏と松代■
真田氏の祖は平安時代にさかのぼると考えられますが、武門の家として史実にあらわれてくるのは戦国の世からで、幸隆は武田信玄に見出されて、川中島合戦や上州攻略戦に連勝し勇名をとどろかせました。
幸隆の長男信綱・二男昌輝は豪雄をもって知られましたが、長篠の戦(1575年)で共に討死し、三男昌幸が真田家をついで上田城を築き、戦国大名の地位を確立しました。
昌幸は、長男信之・二男信繁(幸村)と共に、戦国乱世の中で武略と奮戦によって、武門真田の名を高めました。
1600年の関が原の戦いでは親子・兄弟分かれて戦い、戦後徳川の天下となって以降信之は父の上田領を与えられ、父昌幸は高野山ろくの蟄居させられて没し、弟信繁は冬の陣に大阪城に入って徳川氏の軍を悩まし、夏の陣の華と散りました。
元和8年(1622年)信之が、松代藩10万石の領主として上田から移封されました。これから松代藩は真田氏により10代250年間、信州の雄藩として北信濃を治め、その間文化の先進地となり明治維新を迎えました。


■象山記念館■
佐久間象山の下に、幕末を動かす有力者が集まっていました。
現在も松代に残されている旧松代藩鐘楼にて、日本で初めての指示型電信機による電信通報実験を行った。
その後の日本の通信・逓信に関係する人物が、この松代から多く輩出したようです。


■馬籠宿→妻籠宿 馬籠峠■
旧中山道を歩いて、馬籠宿から妻籠宿へと移動しました。
私は3時間かかりましたが、こんな短時間で行ける距離に次の宿場があるなんて、と思いました。

街道は1本であることはなく、何本か脇道があるものです。
古代道である東山道の時代から、幾筋もの道が作られています。
ことに山間部では、自然災害によって何度もルートが付け替えられています。
江戸末期には3つのルートがあったようです。
その一つのルートに沿って、鉄道が敷設されたようです。
今回歩いた道は、観光化された旧中山道であるため、昔のままの道は一部分であり、新たにルートを整備したようです。
これはハイキング道ですね。


■名古屋での方言■
以前に滞在したときには、方言らしい方言は聞きませんでした。
過去の文章中部・近畿・紀伊旅行記 その他

今回はまったく違う経験をしました。
語尾が、何を言っているのかわからない言葉でした。
途中までは標準語なのですが、後半の、動作や状態を言い表していると思われる部分が、見当もつかないものが多かったです。
名古屋圏のどこの出身かによって言葉は違うと思うのですが、
20歳前後の若い人が接客時に普通に話している様子から、普通の言葉なのかもしれません。



■徳川美術館■
全国の博物館・美術館を見てまわりましたが、地方にあるものでは、徳川美術館ほど、美術工芸に優れたものばかりを所有しているところは他にはありません。
前回訪れたときには、まず入って正面に展示してある馬印・甲冑・槍のなかで、貝を砕いたものを装飾している槍をしばらく見続けたものです。
その後、沖縄の資料館でこの貝の装飾品を見ましたが、この工芸名を忘れてしまったので再び徳川美術館に行きたいと思っていました。
螺鈿(らでん)でした。


引用資料 長野市立博物館
       真田宝物館
参考資料 象山記念館
       南木曽町博物館
       徳川美術館

   戻る