父の名刺には業務内容についてを「企画・デザイン・トレース・写植」「企画・デザイン・写植・写真撮影」とあります。職業を「商業デザイナー」と称していました。ですが、デザイナーが主というわけでもなく、写植打ちの職人(オペレーター)というだけでもなく、印刷原稿のデザイン(レイアウトや図案)の提案などの打ち合わせから印刷所に原稿を出すまでの、あらゆる工程を何でもこなすオールラウンダーだったと言っていいと思います。 名の知られた企業から発注されて商品開発の一端を担うこともあったようです。1980年代半ばにこのカセットテープをたまたま私が使っていたところ、「俺がやった仕事」と聞かされ驚きました。よって当時、ただの下請け業の[版下屋]ではないのだと気付きはしたのですが、その他のことを知る機会はありませんでした。 印刷物とはを想像するに、本や雑誌、カタログやパンフレットなどを思い浮かべることでしょう。そうしたカタログやパンフレットとかの受注も多かったのでしょうけど、一般客が購入するためのものだけでなく、名刺やハガキ封筒、社内で使用される用紙とか、企業間取引で使う案内書や注文書とか、そういうものも受注しています。地元区役所からはチラシはもちろん、資料集か報告書のようなものも受注もしています。 そうした仕事の中で常時受注していたのがダイエーの広告チラシです。 [版下台紙]は、販売されている既存の紙ではなく、それぞれの用途ごとに専用台紙を用いていました。[枠線]や[方眼]や[トンボ(トリムマーク)]が薄い青色であらかじめ印刷されています。 その台紙自体も自分で製作してしまいます。ダイエーの広告チラシ用に、いくつもの大きさとパターンの[版下台紙]を作っています。 こうした台紙を用いた[版下]だけでなく、カレンダー等の少し厚い紙の裏を使用した[版下]もあります。おそらくそれは、仮組の[版下]だと思われます。 黒ではなく青のシャープペンシルがあって、下書きのように書くことがありました。これを消さないままでいるので父に聞くと、青は写らないのだと教わりました。なぜ写らないのかは、いまだにわかりません。 このB5の原稿用紙は、[版下]のネガフィルム化の支払いが1,200円でした。完成した原稿用紙の卸値請求が5,000枚で25,000円でした。5,000枚の印刷代は納品請求書をすでに処分してしまいわかりません。 [写植]で使われる[印画紙]です。四つ切の大きさの箱をスキャンできないので分割スキャンして合成したら、こんな汚い画像になってしまいました。 現像した[印画紙]を切ったり、[版下台紙]に貼るのに、各種定規を使用します。 今回これを書くにあたって初めて知ったのは、正確に水平直角を出すために使用するということです。ですが私は、父のそのような作業風景を記憶していないのです。[印画紙]を切るのに[直定規]しか使ってなく、[版下台紙]に貼るにも感覚で貼っていました。でも、[三角定規]を使っている風景は覚えていますので、仕上げの確認時に使用してたのでしょうか。それとも[デバイダー](コンパスのようで両側が芯のもの)で済ましていたのでしょうか。[デバイダー]を使っている風景も覚えています。 [版下台紙]への接着に[ペーパーセメント]という商品を使うのが王道なのでしょう。もちろん父の作業机には[ペーパーセメント]はありましたが、コクヨの[ペーパーボンド]を多用していました。その都度適量が出せるし、臭いが部屋に充満することがないし、時間が経過しても剥がしやすいからでしょうか。そのおかげで現在残っている版下は、貼ったものがボロボロと落ち剥がれてしまう状態です。 当時の私は、貼ってもやり直しが利き、はみ出たボンドをゴムのクリーナーできれいに取り除けるというこの特徴を面白く感じていました。[練り消しゴム]も、消してもカスが出ないので面白がっていました。 誤植や訂正があって貼り直す場合、[印画紙]の表面を薄く剥がして貼り直すことと、剥がさないで上から貼ることがあるようです。その違いを用いる意図は私にはわかりません。 [写植文字盤]にはない文字を作る際には、1文字内の偏(へん)や旁(つくり)などの部首を分解して切り貼りします。ボンドをつけてわずかな差異を気にして位置決めするのですが、小さな文字ほど神経を使う仕事でした。ピンセットで押して位置を決めても、離すときに静電気で引っ張られて動いてしまうのです。 広告チラシを作る際に、写真に撮られた商品を輪郭に沿って切って版下に貼るのですが、高校生になったとはいえ、曲線をきれいに切り取る行為はとても難しく、こんなこともできないのかと自分をふがいなく思った記憶があります。それで、私が切り取って版下に貼ったものは、結局は後で父が貼り直していました。 こうして作り上げた[版下]に[トレーシングペーパー]を被せ、印刷所に対しての指定や指示を書き込みます。[版下]自体は白黒で作成されるのですが、仕上がり時は部分的にこの白黒が反転することもあります。また、色をつけるところもあります。そうした指示を[トレーシングペーパー]に書き込むのです。 これも上記と一連のものですが、父の字ではないので、父の仕事ではないと思われます。 この[版下]には[色チップ(見本)]が付いて指定されています。 この[版下]には図案の指示のための[アタリ(アタリケイ)]が書かれていませんが、指示は別で出されていたのかもしれません。 この[版下]には[コート紙]使用の指定、[網点(スクリーントーン)]の指定がされています。 [版下]と、[版下フィルム](ポジフィルム)と、完成印刷物です。 この[版下]には[網点(スクリーントーン)]の指定、[アタリ(アタリケイ)]が書かれています。 出来上がった[版下]は[製版カメラ]でフィルム化されるのです。これは印刷所の仕事です。[版下屋]に対して[製版屋]と呼ばれていました。父はいくつもの印刷所と取引をして仕事をしています。そのひとつの印刷所では、[写研]でよく見られる[書体見本帳]「愛のあるユニークで豊かな書体」と同じものを、自社で作って使用していたようです。 『写植機PAVO-JVの最期〜解体〜』でも書いていますが、平成10(1998)年の暮れに、自宅の駐車場にプレハブを建て、細々と仕事をするために必要最低限の仕事道具を持って、あらたな事務所を構えました。 黄緑色のタンスの上に、上記とは別の[印画紙]の箱が見えます。この上の棚に[印画紙乾燥機]が見え、さらに上にはカメラ関係が置かれています。 [トレース台]は、このタンスの最上部を利用して自作したと思われるものです。分解して処分したとき、これがこのままで売られていたものとは思えなかったからです。 これが自宅にあればいいのにと、私がマンガ絵を模写するときに思ったものです。 模写は、固有のロゴとか題字とかがあると必要でした。この[トレース台]で、父も図案を模写したことでしょうけど、印刷所から戻ってきたフィルムを確認するためにも使われたことでしょう。 「写す」という行為には他に写真がありますが、日光写真と同じ原理で[感光紙]を用いて複写する[青焼き]というものもあり、その機械も当時所有していました。後年の[青焼き機]は大きなプリンターみたいな感じですが、当時のものは[写植機]とともに大きく中身むき出しの機械でした。 世の中にコピー機が普及し始めたとき、1枚40円もしたことを覚えています。[青焼き]に対して、コピー機による複写を[白焼き]と呼ぶこともありました。文房具店に置かれたコピー機と、印刷所に置かれたコピー機では性能が違ったようです。「白焼きで濃さは一番薄く」と父に指示されて近くの印刷所におつかいに行った記憶があります。 今はコピー機だけでなくスキャナーもあり、自宅でカラーコピーもできる時代です。[青焼き]は建築関係とデザイン関係の会社で重宝しました。[白焼き]は通常の会社でも重宝したゆえに普及したように、スキャナーも仕事で重宝するゆえに普及したのでしょう。 今は、始めからすべてがデータでやり取りされる時代です。 ここは[印画紙]を現像するための暗室です。この部屋は、プレハブの横に日曜大工で自作したのです。 [現像液]を暖めるのに電気コンロがありました。 当時の[現像液]はとても刺激臭の強いものでした。ですが2016年4月に亮月さんのところで写植打ちをお願いして現像したとき、まったく臭わなかったので驚きました。 [引き伸ばし機]ですが、これを使用しているところを見たのは、私が幼かった頃に数回だけです。 あとがき バブル経済絶頂に至るまでが、職人気質の父の手作業の仕事スタイルが活用できた時期でした。制作費をしっかりともらえる景気のよさ、ある程度は製作期間がもらえたこの時期は、この業界も絶頂でした。それが1990年代になるとすぐに斜陽となり、費用も時間も薄っぺらなものになっていくだけでなく、分業しなくても知識や技術がなくても、誰でもコンピューターで行えるものへと足早に移行してしまいました。 『合唱専門誌「ハーモニー」/「合唱名曲シリーズ」全日本合唱連盟』でも書いているように、DTPによる組版が最終工程であっても、バラ組(ブロック組とでもいえば伝わるか?)では写植も版下台紙もまだ残っていて使われたのが2000年頃です。父が請け負った最後の「ハーモニー116号」は2001年4月発行です。 「ハーモニー」版下、その他 1991年か92年に父はワープロを購入し、どんなものかと試していたようです。私も大学の卒業論文作成で借りて使わせてもらいました。私はその前からMSXパソコンでDTMを行っていたため、操作自体には苦はありませんでしたし、手書きに比べたら校正も楽だし清書の必要もないし、とても助かりました。1993年のことです。 ワープロの字は、写植の字とは比べ物にならないほど荒く、印刷物としては何も手心をつけられず、字が並んだものに過ぎないと感じました。その後のWindowsでも、ワープロよりはWordのほうがいいし、一太郎ではもっとできることが多かったのですが、字を詰めれば文字が潰れることもあり、写植で熟練者が組んだ組版には程遠いものです。 ですが、DTP専門のアプリケーションがなくても印刷物が手軽に安上がりにできてしまうことから、時間もお金もかかる写植はもう生き残れないのは自明でした。 私は音楽制作でDTM(DeskTop Music)という言葉に聞き慣れていました。コンピューターで版下を製作するのはDTP(DeskTop Publishing)といわれます。Macintoshで版下が製作できる環境が整ったのが1990年あたりだそうで、1993年か94年あたりには業界内では危機感を抱き始めたようです。 音楽の話を進めますが、かつての歌謡曲には、作詞家・作曲家・編曲家とそれぞれに専門の人がいて、プロの演奏家やエンジニアがいました。ニューミュージックやシンガーソングライターの出現により、作詞作曲の専門家がいなくても済むことが出始めました。DTMからDAW(Digital Audio Workstation)の出現により、作曲・編曲・演奏、さらには録音・ミキシングまでを自分ひとりでできてしまうようになりました。 父が亡くなる頃はまだDAWは一般的ではなかったのですが、専用機や実物機を使用せず、様々なアプリケーションを組み合わせてコンピューターだけで音楽を制作する方法に置き換えられていく様を肌で感じていたので、父の仕事の先行きを想像することができました。 作曲者が作曲しているとき、完成形は自分の頭の中にあるのみです。作曲者や編曲者が“このような感じ”と演奏を示さなければ、演奏者はその完成イメージを想像できず、意図されたように演奏することはできません。演奏されて始めて他の人に伝わるものです。 印刷物も同じです。指示が出されていくつもの工程を経て少しずつは見えてきますが、完成形は実際に印刷してみないと見えないものです。ですが版下をコンピューターで製作すると、画面に現れているものが、およそ同じようなものが完成形で見れるのです。 最低限では楽器が弾けなければ音楽ができなかったのが、楽器が弾けなくても持ち前のセンスだけでDTMやDAWを使って音楽を作り出しました。 そのように、素養を持ち合わせていなくても誰でも容易くDTPで印刷物を作れるようになったのです。それが印刷業界の質の低下につながっています。やり直しの利かない一発勝負ゆえに皆が自己研鑽していた時代から、下手な言い方をすれば、やりながらいくらでも手直しが利く時代になったのです。 そうして「とりあえず」「仮に」が横行するのです。 誰でもできる仕事であるならば、その仕事には専門性が薄いということになります。 動画作りでも感じますが、ちょっとカジればアイデア次第で面白い動画が作れる気がします。だけど作るほどに、その奥深さや難しさを感じます。その道の「プロ」には及ばないと思います。 さらりと何気なく行っている仕事は、周りの人には容易く行っているように見えますが、そこには容易く真似できない専門性が潜んでいるのです。 コンピューターによる自動演奏やシンセサイザーによる楽器代替を味気ないものと感じ、人間が演奏することで得られる、質の高い専門性のある音楽に回帰したように、印刷においてもかつての手作業とその質の高さに羨望を抱く人が増えているように感じます。 ですが、音楽は楽器が廃れたわけではないので演奏する人が残っていれば復活できますが、かつての写植機をそのまま使い続けるには維持管理上から無理があります。手動写植機はパーツ交換ができなくなった時点で動態保存は不可能となるでしょう。 コンピューターによる製作には、強みも弱みもあります。アニメーション製作では、手書きの原画・動画はなくならないものの、コンピューターによる2D・3D製作が確実に増えています。形を作ってしまえば、動かすだけならば楽だからです。だけど、その動きが手書きのようには“演じて”くれずに面白みがないということでは、音楽制作と同じような状況があります。 ということでアニメーション製作では、手書きのベテランたちがアプリケーションの開発を手伝い、その熟練さをコンピューター上に移植し伝達し続けています。音楽制作では、アプリケーション上でエミュレートする方法がいくつも開発されてきました。 そうして“それはそれ、これはこれ”で、人間や実物機を使うかコンピューターを使うかと使い分けをします。 コンピューターの性能が上がり汎用なものとして使いやすくなっていった1990年代から、音楽もアニメーションも印刷も、積み重ねの年月がともに始まっています。ですので印刷物でも今後は、コンピューターで作るものと手作業で作るものを使い分けるか、コンピューター上にかつての知識や技術を移植し進化させるかだと思います。 味のある手作り・手書きはなくならないものの、また、電算写植から写研が手を引かない限りは写研文字はなくならないものの、コンピューター化への流れは止められないでしょう。 ということで私は維持管理も活用もできないことから、父の没後早々に、2004年に手動写植機を解体処分したのでした。 P.S. 仕事全般についておせっかいなアドバイス ◆過去から学べ 今現在は、過去からの膨大な積み重ねである ◆記録から学べ 人はすぐ忘れる、忘れて同じことを繰り返す、繰り返していては進歩しない ◆人から学べ 言葉は、5割のことを伝えても、受け手は5割を得ない、言葉から得られなければ、見て学べ ◆まわりから学べ 欲しい情報は、ストライクにはやってこないし見つからない、可能性のある情報なら何でもつかめ ◆学問から学べ 学生が勉強するのは当たり前、社会人が勉強するのは、仕事ができるようになりたいのなら当たり前 ◆制限や制約があるから工夫や努力が生まれる。 制限や制約、型やルールが何もない自由の中では、怠惰がのさばる。 ◆素養は共通基盤である。 共通基盤である型やルールを共通認識して、それでなおその上に個性が現れるのです。共通するものがなければ、ただの好き勝手となるのです。 ◆同じ機材やアプリケーションを用いてなお、使う人によって特色が生まれる。 その人の知識・経験・感性を活かして“こだわって”、唯一無二の作品や製品をいかに作るかだと思います。 ◆昔を知って今を知る、他を知って自を知る。 どんな仕事であっても、自分を高めるためには必要なことだと思います。 父は、新聞に折り込まれる広告チラシを熱心に眺めていました。他の人の製作物に見入る、そのような探求を続ける父の姿勢は、このサイトで取り上げている合唱への取り組みにも現れています。 アナログ時代の渾身の作品や技術に振り返えることで、デジタル作品やコンピューターネイティブな人の更なる飛躍につながると思いますし、期待もできます。 他を知るということで言えば、同業のものではなく別の世界・分野に着眼し触れることで、新しい発想が生まれると思っています。 ◆“これが正解”というのもない。 ペンタブレットの某企業がyoutubeにアップしている絵描きのプロたちによる製作工程を見ていると、構図から描く人、細部から描く人、下絵が入念な人、色塗りしながら整えていく人、等々とさまざまです。「とりあえず」「仮に」も見受けられますが、ブラッシュアップされてよい作品・製品となればいいのです。 この文章も、他者のサイトで書かれている内容や表現に近いものがあることを認めます。これは「真似る→学ぶ」であります。その真似に加えて、私の知識・経験・感性を織り交ぜて、私にしか書けないものを目指しています。 (記2017.01、改2017.04)
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