VOL.01日本抒情歌〜解説〜
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VOL.01日本抒情歌〜解説〜



比左志0101.朧月夜
作詞の高野辰之、作曲の岡野貞一コンビにより、大正3年に作られた。高野が育った奥信濃の飯山地方は、灯油の菜種油を採るために菜の花を栽培して、畑一面黄色に染まったという。原曲の楽譜には、前奏、後奏はついていない。
比左志0102.花
日本で最初の芸術歌曲集ともいうべき組み歌《四季》が出版されたのが、明治33年11月、瀧廉太郎のドイツ留学が決定した21歳の時。この《四季》は「花盛り」「海辺の納涼」「月」「雪」の四曲から成っている。花はピアノ伴奏つきの二部合唱、他の三曲は無伴奏の混声合唱。後に「花」「納涼」「秋の月」と改題された。「花」は教科書にも載って、子供から大人まで、日本では 最も好まれて歌われている曲の一つ。「秋の月」は山田耕筰がピアノ伴奏をつけたものが、現在では歌われている。
この《四季》を出版するにあたって瀧が巻頭にみずから "歌曲の殆どは学校唱歌であり、外国の曲に日本語の歌詞をはめ込んだものである。その歌詞は原曲の内容と合わないものが多い。そこでこのたび、日本語の歌詞に作曲した作品を......" と記している。
比左志0103.秋の月
日本で最初の芸術歌曲集ともいうべき組み歌《四季》が出版されたのが、明治33年11月、瀧廉太郎のドイツ留学が決定した21歳の時。この《四季》は「花盛り」「海辺の納涼」「月」「雪」の四曲から成っている。花はピアノ伴奏つきの二部合唱、他の三曲は無伴奏の混声合唱。後に「花」「納涼」「秋の月」と改題された。「花」は教科書にも載って、子供から大人まで、日本では最も好まれて歌われている曲の一つ。「秋の月」は山田耕筰がピアノ伴奏をつけたものが、現在では歌われている。
この《四季》を出版するにあたって瀧が巻頭にみずから "歌曲の殆どは学校唱歌であり、外国の曲に日本語の歌詞をはめ込んだものである。その歌詞は原曲の内容と合わないものが多い。そこでこのたび、日本語の歌詞に作曲した作品を......" と記している。
比左志0104.荒城の月
明治34年「中学唱歌」の懸賞応募作品として作曲し、入選となった作品。但しメロディーだけで、これも山田耕筰がピアノ伴奏を付けたものが今日歌われている。土井晩翆の土井は元来(つちい)と読むそうですが、本人も(どい)と認めていた。44年、瀧が留学するにあたっての送別演奏会で、三浦環が歌った。
比左志0105.母
独特の女性画を描く抒情挿絵家の竹久夢二の作詞。この他にも竹久の作詞は「宵待草」が有名であるが、彼は随筆・小説・童話などを書いており、英米の古いわらべうたなどを訳詞したりしている詩人でもあった。学習院の音楽教官を努めた小松耕輔が作曲したこの曲は、女声合唱でもよく歌われる。
比左志0106.泊り船
大正8年に作曲されたもので、日本民謡を基調にした歌曲。小松耕輔は、日本人の作曲による初めてのオペラ「羽衣」を作曲し、それが明治39年に上演された。また、小松は童謡運動の先駆者でもあり、桟草オペラの訳詞も手掛けるなど多彩な人であった。戦後は合唱活動にも力を入れ、合唱連盟の初代理事長にも就任した。
比左志0107.砂丘の上
大正8年、室生犀星の依頼に依って彼の詩集「抒情小曲」のために作曲したもの。詩集の冒頭にのっている。
砂丘というテーマになるとスケールが大きくなる、平井康三郎の「九十九里浜」はいかにも太平洋という感じだが、室生の砂丘は日本海といったところか、曲の後半は間延びがするのでテンポを少しアップして歌った方がよい。
比左志0108.白月
大正10年9月に作曲された。童謡作曲家として知られている本居長豫の、独唱用の歌曲としては一番有名な曲でもあり、上品で清楚な曲である。《エレジーを歌うような心地で、清澄に寂しく》と作曲者は述べている。昔から好まれて歌われているが、いきなりEの音から始まり、音域も広く、歌い手にとっては以外と難しい曲である。
比左志0109.関の夕ざれ
日本古謡から詞をとり、まったく日本民謡的な旋律で作られている。これと同じような曲が山田耕筰に「鐘が鳴ります」という曲がある。
本居は山田と東京音楽学校の同級生であるので対抗意識があったのかも知れない。曲の中程は歌いづらいので工夫が必要。ここではGで長く延ばす音を1小節カットした。
比左志0110.早春賦
「早春賦」は信濃の安曇野の遅い春をうたった詩である。吉丸一昌が東京音楽学校の教授になり「尋常小学読本唱歌」の作詞委員を努めていて、「新作唱歌」十集75曲を刊行。その中に入っている。モーツァルトの「春へのあこがれ」に旋律がにている。
比左志0111.城ヶ島の雨
大正2年、島村抱月の主宰する(芸術座)の第一回日の音楽会が催されることになって、作詞を北原白秋に、作曲を梁田貞に依頼した。
白秋の詞が出来たのが、音楽会の前日の夜になってしまったので、梁田は朝までに4時間ばかりで作曲したという。尺八の名手だった梁田は北海道出身で「江差追分」を得意でよく吹いていたという。この曲の、雨に煙る城ヶ島の情景が、尺八の奏法によくマッチしている。
比左志0112.この道
大正14年の夏、樺太、北海道を旅した時の、あかしやの花、時計台、馬車などの札幌の思い山を綴った詞であるとともに、白秋の亡き母を慕う心を詠ったものである。白秋はこの詩を大正15年8月の「赤い鳥」に発表した。作曲されたのは翌年の昭和2年2月(童謡百曲集一第3集第47曲)。
比左志0113.赤とんぼ
三木露風はこの詩を大正10年8月、「北海道トラピス修道院」在職中の作詩で、童謡雑誌「樫の実」に発表した。露風の母への慕情と、故郷の播磨平野への思いを詠ったもの。作曲されたのは昭和は2年1月。瀧廉太郎の「花」とともに、大人から子供までにもっとも親しまれている歌である(童謡百曲集一第2集第27曲)。
比左志0114.砂山
大正11年6月、白秋が新潟に招かれた時、後から詩を作って送ると約束して出来たもので、その年の9月には、中山晋平の作った曲とともに、新潟に送り約束を果たした。晋平の曲は童謡風であるのに、耕筰の曲は歌曲風である。
作曲したのは大正15年12月(童謡百曲集一第5集85曲)晋平の曲には "ぐみわらわけて" と書いてあるのに、耕筰の曲では "ぐみはらわけて" となっている。
比左志0115.待ちぼうけ
大正12年「ペチカ」などとともに、関東州教育会の依頼により作られ、内容は満州こ因んでいる。白秋は「待ちぼうけ」を古い中国の寓話、韓菲子の《守株待兎》から引用した。耕筰はピアノ伴春の前奏部分に、大連で開いた、街をはしる馬章のチャルメラの旋律を使った。
比左志0116.ペチカ
「待ちぼうけ」と同じく大正12年12月に作られた。ペチカはロシア式の暖炉で、満州ではあちこちの家庭で見られた。ロシア語では正しくは "ペィチカ" と発音される、白秋の詩のとおり日本的な発音でペチカと歌うか、ロシアの発音でペィチカと歌うかは、歌い手によって異なっている。
比左志0117.かやの木山の
山田耕筰と北原白秋が組んで「詩と音楽」という雑誌を創刊して、毎号巻頭に4ページの楽譜を載せた。この曲もその一つで、大正11年7月に作曲された。耕筰自身もいい曲だと自賛しており、白秋と耕筰のコンビの最も油の乗っていた頃の絶品である。題名は「かやの木山の」が正しい。
比左志0118.鐘が鳴ります
大正12年2月の「女性」に発表された「日本の笛」の中の詩で、作曲は同年5月。15年には、作曲者白身が伴奏して藤原義江が歌ったレコードか発売されて、広く知られるようになった。
恋しい女性が現れないのを、切ない気持ちで待っている、という情感を、ゆったりとした民謡調の流れで美しく詠い上げている。
比左志0119.野薔薇
露風は大正6年7月、三度目の北海道トラピスト修道院の訪問を行った。途中函館から帰る院長と出会い、道中を共にした。その折りに道端で見た薔薇を「賢き野ばら」の題で詩を書いた。
オランダ人のタルシスという修道士がその詩に作曲をしたが、耕筰にも同月絵はがきにて詩を送っている。一ヶ月あまりの後、8月25日に耕筰はこの詩に作曲をした。
敬虔な祈りの気持ちのこもった、気品のある歌曲である。
比左志0120.中国地方の子守唄
昭和3年4月に芸術歌曲として発表したもの。岡山県西南部に江戸時代から伝わる「ねんねん守の唄」という子守唄で、井原市出身の歌手、上野耐之がこんな子守唄が私の故郷にある、と耕筰に歌って聞かせたところ、"いいメロディーだから歌曲にしてみようと"いうことで、すぐその場で五線譜に採譜したという。
比左志0121.曼珠沙華("AIYANの歌"より)
耕筰が白秋に出会って初めて生まれた名作で、歌曲集「AIYANの歌」全五曲の中の第四曲目、作曲は大正11年5月。AIYANとは柳川語で下婢・子守女、またゴンシャン(GONSHAN)とは良家の娘のこと。 "恐や 赤しや まだ七つ" とあるように、小さくして子を失った母親が、曼珠沙華が咲く頃、お墓参りする時の哀しみを詠ったもの。白秋白身が二人の乳母の死という体験と重なって、恐ろしいほどの哀しみが伝わってくる。
比左志0122.みぞれに寄する愛の歌
昭和23年の晩秋、平素は詩に対してあまり関心を見せない耕筰の夫人か、この詩を耕筰に見せて、ぜひ自分のために作曲してくれとせがんで出来たらの。その2年前「愛の祈り」という曲書いていたので、 "愛の歌" 2編として妻に贈った。
比左志0123.さくらさくら
江戸時代は「さいた櫻」という題名で、 "咲いたさくら 花見で戻る 吉野はさくら 竜田はもみじ 唐崎の松 ときは 深緑..." という言葉であった。
明治21年発行の、音楽取調掛の(箏曲集)に琴の曲として載っているが、この時にすっきりとした形に改められ、昭和16年発刊の「ウタノホン(下)」に収められた際に、今のような歌詞になった。

五味比左志〜合唱とともに〜