VOL.10世界の歌(アメリカ、イギリス)〜解説〜
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VOL.10世界の歌(アメリカ、イギリス)〜解説〜



比左志1001.アロハ・オエ
ハワイ王朝最後の王となった王女リリウォカラニが1878年、ホノルル郊外のマウナウィリへ騎馬旅行を楽しんだ折り、同行の将校と村の娘の別れを惜しむ姿に、心を打たれて作ったものと伝えられている。メロディーはアメリカのチャールス・コンヴァースの「The rock beside the sea」の替え歌ともいわれるが、1880年代にアメリカ本土で大ヒットした。《アロハ・オエ》とは、ハワイ語の "さらば愛する君よ" といった意味で、海原のうねりにも似たのんびりした雰囲気の中に、哀愁をたたえている曲である。
比左志1002.コロラドの月
1930年、ヒリー・モール作詞、ロバート・キング作曲のコンビによって作られた比較的新しい曲、わが国には、カフェーやダンスホール全盛期の昭和初期に大流行し、当時のモボやモガにとっては懐かしい曲である。ダンス・パーティやフォーク・ダンスなどでは、フィナーレのナンバーとして「ほたるの光」と共に、よく演奏される。
秋の夜空にかかる月の影を写した、哀愁を漂わせる美しいワルツの旋律。
比左志1003.谷間のともしび
1932年、ジョー・ライオンズ、サム・ハートと3人の無名コーラス・チーム《ザ・ヴァガボンズ》の合作品といわれるが、はっきりしたことは不明である。日本では昭和9年、東海林太郎の歌で広く知られるようになった。スロー・テンポで歌われたこの歌は、しみじみとした情緒を漂わせた郷愁を味わせてくれる。
比左志1004.線路は続くよどこまでも
19世紀の後半、アメリカ西部の開拓には鉄道路線の敷設が不可欠であった。その敷設のために鉄道工夫として働いた、たくましい男たちの懐古物語が元歌であり、砂漠地帯や堅い岩盤などの苛酷な自然条件、インデアンの襲撃などの妨害の中での重労働を、一人の歌を中心に合唱が加わり、明るく楽しく愉快にまとめた曲である。昭和42年、NHKの「みんなのうた」で紹介された。
比左志1005.星の界
現曲はアメリカのコンヴァース(1789〜1860)作曲の「What a Friend we Have in Jesus」。コンヴァースは唱歌の作曲家としてたくさんの曲を作曲しているが、弁護士・法学博士でもある。賛美歌312番「いつくしみ深さ友なるイエスは」はこの曲に歌詞がつけられた。
明治43年4月「教科統合中学唱歌(2)」に載せられて以来、ある程度の年代の人には親しみのある曲であるが、歌詞は文語体で古めかしい。
比左志1006.冬の星座
作曲者のヘイスは、ケンタッキー州ルイズヴィル出身で、南北戦争時代の1853年以来、300曲近くの大衆歌謡を作曲した。この曲の他には「故郷の廃家」が知られている。
昭和22年7月に発行された文部省編纂の最後の教科書「中学音楽(1)」に「他郷の月」の歌詞で載せられたが、新制度の六・三制の音楽教科書では「冬の星座」の歌詞となった。
比左志1007.故郷の廃家
「冬の星座」と同じヘイスの作曲した曲である。作詞者の犬童球渓(1884〜1943)が28歳のとき、新潟高女で音楽教師として教職中、自分の故郷である熊本に思いを寄せて、せつせつと偲んで作った望郷の詩である。日本人が作曲したかと思われるほど、歌詞と曲かぴったりと合っている。
比左志1008.白銀の糸
アメリカ民謡の代表的なもの。名歌手ジョン・マコーマックなどによって、世界に広まった。
アメリカ民謡の中には、西欧風な民謡の旋律で、故郷を思う気持ちを歌ったものが多く、これはドイツ民謡風である。
比左志1009.旅愁
作曲者のオードウェイは医学博士でもあるが、数多くのやさしい抒情歌を作曲している。この曲はアメリカの古い教科書にしばしば掲載された。訳詞の犬童は「故郷の廃家」と同じく新潟高女時代に、故郷の九州を思いやって作詞した。明治から大正にかけて、女子学生の間で全国的にもてはやされた。
比左志1010.なつかしきヴァージニア
この曲の作詞・作曲者のジェームス・ブランド(1854〜1911)は黒人の歌手、作曲家で、これは彼の代表作。彼は民衆のための歌を700曲余り作ったが、そのほとんどは残っていない。この歌はヴァージニア州の州歌になっている。
植民地時代の面影を残す小さな町ウィリアムズバークは、1780年頓まではヴァージニア州の州都であった。黒人の生活と感情をよく詠っているので、多くの人に愛唱された。
比左志1011.故郷の人々(スワニー河)
アメリカのシューベルトとも言われたフォスター(1826〜1864)の1851年の作品。初めは「ビディー川」となっていたのを、兄モリスンのすすめでスワニー河に改めたと言われる。フォスター作品の特徴はメロディーの美しさ、そしてそのメロディーに抵抗なくのった、彼自作の歌詞である。
この曲は「明治唱歌(二)」では「あわれの少女」(大和田建樹作詞)という題で、アンデルセン童話の「マッチ売りの少女」をモチーフにした歌詞がついていた。
比左志1012.金髪のジェニー
フォスターは1854年にこの曲を発表した。この歌のモデルとなったジェーン(ジェニーは愛称)との結婚がこの年の1月5日行われた。しかし、結婚は1850年という説もある。題名の英語で見るとLight Brown Hair(ライト・ブラウンヘアー)となっている。これを、どうして金髪のジェニーと題名につけたのは知らないが、金髪に対する男性の憧れからなのか。この曲は珍しく黒人訛りの言葉を使用していない。それだけに優美な歌曲である。
比左志1013.夢路より
フォスターは1864年1月13日、不慮の事故で38歳の若さで孤独の人生を閉じた。この曲はその数日前に作られて、彼の最後の作品となった。孤独で病苦と貧凶の生活の中からでも、最後まで美しく優しい旋律を生み出した。窓辺にまどろむ美しい乙女に寄せる愛を、ロマンチックに詠い上げている。今日最もよく演奏会などで歌われている。
比左志1014.春の日の花と輝く
アイルランド地方の最も有名な古い民謡。原詩はアイルランド出身の詩人、作曲家、歌手でもあったトーマス・ムーア(1773〜1851)の「わたしの宿は冷たい土の中」である。一説には、マシュー・ロックが作曲したともいわれている。
比左志1015.久しき昔
無名の作曲家トーマス・ヘインズ・ベイリー(1797〜1837)によって作られた。日本では関東大震災前に来日して、有楽座で歌ったメトロポリタンの美しい歌姫リポコウスカによって紹介された。しかし、曲はそれ以前に日本に入って来ていて、近藤朔風によって訳詞されていた。その後一部訂正されて、出版社の楽譜によっては多少歌詞の違った箇所もある。「思い出」という題名の合唱曲としてもよく知られている。ドイツ語でも歌われドイツ映画にも登場する。
比左志1016.庭の千草
アイルランドの古い民謡のふしにアイルランドの詩人トーマス・ムーア(1779〜1851)が作詩したもの。秋風が立ち始めた庭に、一輪だけ咲き残ったバラへの愛情を詠っている。歌劇「マルタ」(フロトー作曲)の中にもこの歌が引用されている。
明治17年「小学唱歌集」に載せるため、里美義(ただし)は当時の日本人の好みに合わせ、残菊が霜にもめげず咲いている姿を詠った「庭の千草」の歌詞に変えた。現題の「夏の名残の薔薇」よりも、この「庭の千草」の方がより好まれて歌われている。
比左志1017.埴生の宿
イギリスの作曲家ビショップ(1786〜1855)が1823年に作曲したもの。日本では明治18年、音楽取調掛の第一回卒業演奏会に四部合唱で歌われた。明治22年の「中学唱歌集」にも四部合唱曲として載っている。
"埴生の宿" とは、土で作った粗末な小屋、という意味。訳詞の里美義は原詩に忠実で、内容をよく伝えている。
比左志1018.ロンドンデリーの歌
アイルランドのデリー地方に伝わる珍しい民謡をロス女史か集めた。この中からイギリスの作曲家、ヴァイオリニストとして名高いバーシー・グレンジャー(1882年)が編曲し紹介した。後にクライスラー、コンヴァース等がよく演奏して広めた。
一般には「ダニ一・ボーイ」という歌で知られているが、この現詩は由緒あるトーン家の寡婦の嘆きの歌。
比左志1019.アニー・ローリー
スコットランドのジョン・ダグラス・スコット夫人(1810〜1900)が、1838年に刊行した「スコットランド歌謡集」に発表した。歌詞は詩人ウィリアム・ダグラスが、マクスウェルトンの貴族の娘アニー・ローリーに捧げた愛の歌。クリミア戦争のとき兵士たちの間で広まったといわれている。
我が国では、明治17年「小学唱歌集(3)」に、紫式部と清少納言を詠った「才女」という歌詞で発表された。
比左志1020.スコットランドの釣鐘草
釣鐘草は青い小さな釣り鐘形の花をつけた、スコットランドの国花である。現曲は、若い娘が戦場に行っている恋人を思う乙女心を詠っている。1800年アイルランド出身の女優ロシイ・ジョーダン夫人が、ロンドンのドリュリ・レイン劇場で歌ってから世の中に知られるようになった。原曲の詞は1799年、ラガンのグラント夫人が、ハントリー子爵を戦場に送る際に作ったとされている。
比左志1021.なつかしき愛の歌
クリフトン・ビンガムの詞に、ジェームス・ライマン・モロイ(1837〜1900)が作曲して、1884年に出版された。アイルラント生まれのモロイの本職は弁護士であるが、アイルランド民謡を研究して、たくさんのポピュラーな歌曲を作った。移民先のアメリカで大ヒットし、今でもホーム・ソングとして愛唱されている。
比左志1022.故郷の空
スコットランド民謡で、原曲は "二人が逢うのは麦畑......" という「麦畑」。スコットランド民謡の独特なステッチ・ステップを、日本人が歌いやすいように「明治唱歌」の編集者の一人、奥好義がリズムを変えて、これに大和田建樹が原詞とは全く違った歌詞をあてはめ、子供にも歌えるような健全な唱歌となった。
比左志1023.蛍の光
送別の歌として、全世界で歌われている古いスコットランドの民謡。郷土詩人ロバート・バーンズ(1759〜1796)が、1788年に詞をつけたが旋律は以前よりあった。「聖ミカエル祭で若者に逢った」という詞で、外国では除夜にこれを歌う。
小学唱歌の編集者アメリカのメイソンは、イギリスの旋律が日本の五音階の旋律に似通っているということで、多くのイギリス民謡を取り入れた。刊行と初演は明治14年、東京女子師範学校で歌われた。"蛍の光 窓の雪" の言葉は中国の故事からとられた。
三、四節は現在は全く歌われていない。

五味比左志〜合唱とともに〜