VOL.07懐かしの抒情歌〜解説〜
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VOL.07懐かしの抒情歌〜解説〜



比左志0701.すみれの花の咲く頃
まるで宝塚歌劇のテーマソングのようになってしまったこの歌は、実はシャンソンではなく、ヴィーンの作曲家フランツ・デーレが1929年に書いた曲。翌年フランスにこの曲がもたされると、留学に来ていた宝塚の白井鉄造が、この歌が主題歌になっている「パリゼット」というレビューとともにすぐ持ち帰り、宝塚で上演したのが30年(昭和5年)の8月のこと。
原題ではニワトコの花であったのが、フランスではリラの花、それが日本ではスミレの花になってしまった。
比左志0702.恋はやさし野辺の花よ
スッぺ(1819〜1895)はオペレッタの作曲者として、オッフェンバックの後を受け継ぎヴィーンで活躍し、ヴィーン・オペレッタ・スタイルを確立した。この歌は喜歌劇「ボッカチオ」の第一幕で、詩人ボッカチオと愛人フィアメッタによって歌われる二重唱、コロラトゥーラ・ソプラノによっても歌われる。
゛恋はやさし......゛ といえば日本ではやはりこの人、田谷力三が当たり役で、23才の時の、浅草オペラでの人気上演作品。浅草で最初に上演されたのは大正10年のこと。
比左志0703.七里ヶ浜の哀歌<真白き富士の根>
明治43年1月23日、逗子開成中学生12名の乗ったボートが七里ヶ浜沖で転覆して全員溺死するという事故か起こった。2月6日に中学で行われた追悼法要にこの曲が歌われた。
鎌倉女学校の数学教師だった三角錫子は、「明治唱歌(5)」の中の「窓の外」(アメリカのガードンが1850年に作曲した「帰郷のよろこび」という賛美歌)にこの歌詞をつけて自身のオルガンの伴奏で女学校の生徒が歌った。
比左志0704.琵琶湖周航の歌
琵琶湖周航は、明治23年以来、三高のボート部の年中行事である。この三高のボート部の歌の由来は、イギリス民謡の「ひつじ草」 "おぼろ月夜の星明かり・...‥" という歌に、吉田ちあきが新たなメロディーをつけて大正4年の「音楽界」に発表した。今度はそのメロディーに小口太郎が、大正7年にこの琵琶湖周航の歌詞をはめ込んだもの。
比左志0705.祇園小唄
昭和4年11月、マキノ・プロダクションが、長田幹彦の長編小説「祇園夜話」をもとに、金森万象の監督で「絵日傘」という映画を作った。金森監督は「東京行進曲」の大ヒットから、この映画にも主題歌を入れた。それが5年1月にビクターからレコードが発売された。A・B面とも同じ曲という型破りなレコードであったが、これがねらったとおり大ヒットした。
この頃は、ご当地ソング民謡・小唄ブームで、一番の売れっ子は中山晋平であった。佐々紅華も浪花小唄など、いくつか作っている。
比左志0706.ゴンドラの唄
大正4年4月、芸術座公演の「その前夜」の劇中歌で、ヴェネチア民謡風な歌の依頼を受けた吉井勇は、アンデルセンの「即興詩人」(森鴎外訳)の文句がとっさに浮かび、それを下敷きにこの歌詞を書いた。中山晋平は父危篤の電報を受け、帰郷中の汽車の中でこの曲をまとめたという。中山は前年の芸術座の第三回の公演「復活」の劇中歌「カチューシャの唄」で新しい大衆歌謡曲の分野を確立した。
 昭和27年の黒沢明監督の映画「生きる」のラストシーンでこの歌が志村喬によって歌われたのが、大変印象的である。
比左志0707.水色のワルツ
昭和21年の冬、高木東六は疎開先の伊那市で、韓国の民謡を題材にしたオペラ「春香伝」を作曲していた。そのおり天竜川の河原を散歩していた時、ふと浮かんだワルツをメモしておいたのがこの曲を作る基となった。その後それに藤浦洸が詞をはめ込んだ。二葉あき子が歌って25年にコロンビアからレコードが発売された。
 シャンソン風なこの曲を、東六は歌謡曲風でもクラシック風でも歌われるのをいやがった。
比左志0708.白鳥の歌 「音楽五人衆」より
古関裕而は、少年時代から短歌を好み万葉集などに親しんでいた。昭和22年、東宝映画「音楽五人男」の中で、若山牧水のこの短歌に作曲を依頼されたが古関は自信をもって作曲した。
出演した藤山一郎と松田トシの歌でコロンビアからレコードが発売された。
比左志0709.長崎の鐘
永井隆博士の体験記録「長崎の鐘」は映画になったが、その主題曲のこの歌は、映画よりも一年以上も前から、昭和24年4月に藤山一郎の歌でコロンビアから発売されている。
古関はこの曲を、前半は短調で深い悲しみを、後半は長調にして打ちひしがれた人々のために、希望を込めて力強く歌い上げるように作曲した。
比左志0710.イヨマンテの夜 「鐘の鳴る丘」より
昭和22年7月から3年半続いた「鐘のなる丘」は占領軍の指令により、戦災孤児・浮浪児救済キャンペーンのために企画された。その主題歌「とんがり帽子」がラジオから流れると、外で遊んでいた子供達はいっせいに家に駆け込んでこの放送を聞いた。
放送も進んだ昭和24年、木材を切り出す仙人が口ずさむ歌を書いたところ、菊田一夫が気に入り、アイヌを題材にした歌謡曲に仕上げた。伊藤久男がその美声と力強さをもって歌うこの歌は絶品。
比左志0711.蘇州夜曲
昭和15年、束宝映画は当時、渡辺はま子が歌ってヒットしていた「支那の夜」を映画化した。主役は長谷川一夫と満映の人気スター李沓蘭、音楽担当は服部良一。この主題歌「蘇州夜曲」の歌詞を書いた西条八十の詩が抒情あふれる格調の高い詩であり、またメロディーも甘く悲しく、ストーリーにぴったりの曲であったので、この曲を気に入った監督の伏水修は映画の全編にこの曲を流した。もちろん李香蘭もこの映画の中で歌っている。しかしコロンビアから出たレコードでは渡辺はま子と霧島のぼるが歌っているが、純情可憐なイメージで歌っている李沓蘭の歌のほうがピッタリのような気がする。
この映画を作る前、服部良一は中国各地を前線慰問している。この時「蘇州夜曲」のメロディーのイメージが浮かんでいたという。
比左志0712.山のけむり
昭和26年8月の「ラジオ歌謡」伊藤久男か格調高く歌って好評だった。作詞者の大倉芳郎は、この山は特定の山を意識して書いたのではなく、映画の印象からこの詞を書いたという。作曲者の八洲秀章は横須賀線の車中でこの曲を書いたという。
比左志0713.高原の宿
シンガーソング・ライターは今でこそ当たり前だが、戦前からシンガーソング・ライターとして活躍して成功したのは林伊佐緒。自分白身は声が堅いので、作曲でカバーしているんですよ、と本人は述懐している。昭和30年4月に自ら歌って発表した。
比左志0714.白い花の咲く頃
昭和25年5月の「ラジオ歌謡」岡本敦郎の歌で発表された。しかし作曲は前の年、作曲者の田村しげるの弟子の新人歌手のオーディションのために「さよならと云ったら」という題名でレコードに吹き込んだが、世に出なかった。一年ほどたってふと「ラジオ歌謡」にと、ディレクターに聞いてもらったところOKが出て採用された。
比左志0715.鈴懸の径
太平洋戦争が勃発した翌年、昭和17年レコード会社各社は軍国歌謡を盛んに製作していた。その中で作詞者の佐伯孝夫の「新雪」が8月に「鈴懸の径」が9月に発売された。「新雪」は映画の主題歌、「鈴懸の径」は学園ソングで、歌っているのは灰田勝彦、作曲はその兄の有紀彦、当時の学生は軍事訓練と勤労奉仕にあけくれていた。この歌を戦場で歌いそして死んでいった学徒兵がどのくらいいたのか。
昭和57年11月、立教大学の構内に「鈴懸の径」の歌碑が建てられたが、母校での除幕式に出席を持たずに、その一週間前に灰田勝彦は急逝した。
比左志0716.山のロザリア
ムボデスバー二ャに展するロシア民族舞踊の器楽曲「アレクサンドリア」に、丘灯至夫が詞をつけた。ロザリアは丘がつけた架空の女性の名で、ロシア民謡風な哀愁のあるワルツとなった。歌声喫茶に通った年代には、大変懐かしい曲で、女性コーラス、スリー・グレイスが昭和36年にレコードを発売して有名になったが、その前の31年に織井茂子の歌でレコード化した時はあまり反応がなかった。
比左志0717.かあさんの歌
作者の窪田聡は、共産党の指令で中央合唱団に入ってアコーディオンを弾きながら(歌声運動)に専従していた。戦争中に疎開していた信州時代の思い出が、この歌のテーマになっていて、昭和31年に出来た。故郷を離れて働く若者達にとっては憩いの場、歌声喫茶のベスト曲。
比左志0718.四季の歌
フォークグループ "伝書鳩" のメンバー、荒木とよひさが、昭和39年にスキー事故で入院していた折り、親切にしてくれた看護婦たちにプレゼントした。それがヴォランティア活動していた看護婦仲間たちの中に広がった。昭和51年に発売した、芹洋子の歌が曲のイメージにピッタリと合って、80万枚の大ヒットとなった。「スーチーガ」の題名で、中国でもヒットした。

五味比左志〜合唱とともに〜