VOL.02日本抒情歌〜解説〜
閉じる
VOL.02日本抒情歌〜解説〜



比左志0201.波浮の港
大正13年の春、雑誌「婦人世界」の編集者が、一枚の絵葉書を持参して雨情を訪ね、これにふさわしい詩をかいてほしいと頼んで出来た。この時は二番しか出来ていなかったが、昭和3年、作曲者自身のピアノ伴奏で、佐藤千夜子が吹き込み、レコード化したときに四番までを追加した。新民謡(ご当地ソング)が相次いでレコード化する、これがそのはしりでもある。7月には藤原義江による赤盤が出ると、たちまち流行して、同題名の "小唄映画" が三社競作ということにもなった。 "ヤレホン二サ" は晋平の創作であり、囃子言葉をたくみに入れて調子のよさを作り出す晋平ならではの歌である。
比左志0202.出船の港
港シリーズ三部作というべきか、出船の港、波浮の港、鉾をおさめて、といえば我らがテナー藤原義江の歌でおなじみ。藤原は昭和2年だけでも3ヶ月に64回のコンサートをし、全国各地でこの歌を披露して歩いたという。
レコーディングはアメリカのビクターで行われ、昭和3年2月、ビクターの流行歌第一回新譜に発表された。この年から日本でもレコードプレスが出来るようになり、この三部作はレコードによる流行歌のトップを切るものであった。
比左志0203.丹澤
組曲 "沙羅"
昭和10年、東京音楽学校で同僚だった、清水重道の詩に作曲をした。全8曲で物語性はないが、すべての曲は余分な肉をそそぎ落とした、詩の本質に迫った作品である。山田耕筰の洗練されたこまやかな情緒感とよく比較されるが、信時の作品は、ドイツ歌曲風な古典的であり、剛健質実とでもいうべきものである。声楽を勉強する者にとってこの曲は、人生の最後を飾る歌として取り組むべきであると思われる。
比左志0204.あづまやの
組曲 "沙羅"
昭和10年、東京音楽学校で同僚だった、清水重道の詩に作曲をした。全8曲で物語性はないが、すべての曲は余分な肉をそそぎ落とした、詩の本質に迫った作品である。山田耕筰の洗練されたこまやかな情緒感とよく比較されるが、信時の作品は、ドイツ歌曲風な古典的であり、剛健質実とでもいうべきものである。声楽を勉強する者にとってこの曲は、人生の最後を飾る歌として取り組むべきであると思われる。
比左志0205.北秋の
組曲 "沙羅"
昭和10年、東京音楽学校で同僚だった、清水重道の詩に作曲をした。全8曲で物語性はないが、すべての曲は余分な肉をそそぎ落とした、詩の本質に迫った作品である。山田耕筰の洗練されたこまやかな情緒感とよく比較されるが、信時の作品は、ドイツ歌曲風な古典的であり、剛健質実とでもいうべきものである。声楽を勉強する者にとってこの曲は、人生の最後を飾る歌として取り組むべきであると思われる。
比左志0206.沙羅
組曲 "沙羅"
昭和10年、東京音楽学校で同僚だった、清水重道の詩に作曲をした。全8曲で物語性はないが、すべての曲は余分な肉をそそぎ落とした、詩の本質に迫った作品である。山田耕筰の洗練されたこまやかな情緒感とよく比較されるが、信時の作品は、ドイツ歌曲風な古典的であり、剛健質実とでもいうべきものである。声楽を勉強する者にとってこの曲は、人生の最後を飾る歌として取り組むべきであると思われる。
比左志0207.鴉
組曲 "沙羅"
昭和10年、東京音楽学校で同僚だった、清水重道の詩に作曲をした。全8曲で物語性はないが、すべての曲は余分な肉をそそぎ落とした、詩の本質に迫った作品である。山田耕筰の洗練されたこまやかな情緒感とよく比較されるが、信時の作品は、ドイツ歌曲風な古典的であり、剛健質実とでもいうべきものである。声楽を勉強する者にとってこの曲は、人生の最後を飾る歌として取り組むべきであると思われる。
比左志0208.行々子
組曲 "沙羅"
昭和10年、東京音楽学校で同僚だった、清水重道の詩に作曲をした。全8曲で物語性はないが、すべての曲は余分な肉をそそぎ落とした、詩の本質に迫った作品である。山田耕筰の洗練されたこまやかな情緒感とよく比較されるが、信時の作品は、ドイツ歌曲風な古典的であり、剛健質実とでもいうべきものである。声楽を勉強する者にとってこの曲は、人生の最後を飾る歌として取り組むべきであると思われる。
比左志0209.占うと
組曲 "沙羅"
昭和10年、東京音楽学校で同僚だった、清水重道の詩に作曲をした。全8曲で物語性はないが、すべての曲は余分な肉をそそぎ落とした、詩の本質に迫った作品である。山田耕筰の洗練されたこまやかな情緒感とよく比較されるが、信時の作品は、ドイツ歌曲風な古典的であり、剛健質実とでもいうべきものである。声楽を勉強する者にとってこの曲は、人生の最後を飾る歌として取り組むべきであると思われる。
比左志0210.ゆめ
組曲 "沙羅"
昭和10年、東京音楽学校で同僚だった、清水重道の詩に作曲をした。全8曲で物語性はないが、すべての曲は余分な肉をそそぎ落とした、詩の本質に迫った作品である。山田耕筰の洗練されたこまやかな情緒感とよく比較されるが、信時の作品は、ドイツ歌曲風な古典的であり、剛健質実とでもいうべきものである。声楽を勉強する者にとってこの曲は、人生の最後を飾る歌として取り組むべきであると思われる。
比左志0211.我手の花
「小曲五章」の第四曲、ドイツから帰国した(大正12年)直後の作品。ソプラノ武岡鶴代女史によって初演された。ドイツ留学時代の恩師ウェルクマイステル氏の称賛を得たという、小曲ながら味わい深い作品。
比左志0212.ふるさとの
三木露風が早稲田大学在学中に雑誌に発表したもので、二年後に露風第二詩集「廃園」の中に収められている。作曲は大正3年に発行された斎藤佳三作品集「新しき民謡」の中で発表された。昭和3年2月藤原義江の歌で、ビクターから発売されている。斎藤は画家で、ベルリンに留学したとき、山田耕筰と同じ下宿だった。
比左志0213.信田の藪
信田は大阪府の泉大津市と和泉市にまたがる地域の信太山である。この山に住んでいた白狐が《葛の背》という美女に化けて、京の陰陽師阿部保名と愛しあい、阿部晴明を産んだという有名な伝説に基づいた詞に、藤井清水が大正11年11月に作曲した。藤井は民謡や邦楽の研究をした人で、この曲も民謡風歌曲である。昭和3年6月藤原義江の歌でビクターから発売された。
比左志0214.出船
作詞者の勝田香月が19歳の大正7年、石川啄木を慕って北国を旅をしていた途中、秋田の能代港で吹雪の舞う情景を目にして、大館市のわびしい宿でこの詩を作ったという。作曲者の杉山長谷夫はヴァイオリニスト、自作のヴァイオリン協奏曲の第二楽章のテーマをはめて、大正11年の夏にこの曲を作った。藤原義江の歌で世に広く知れわたった。
比左志0215.花嫁人形
大正12年、蕗谷虹児が24歳の時の詩で、13年1月「コドモノク二」に掲載された。蕗谷は大正時代に美少女を描いて活躍した人気の挿絵家、15歳の時虹児を生み、29歳で亡くなった母への思慕の気持ちを書いた。"京人形のようだった";と彼は語っていた。
作曲されたのは大正14年4月「金の星集(9)」に載った。しかし作曲されたのは蕗谷が渡航している間で、蕗谷に断りもなく作曲して発表してしまったので、帰国後、出版社と大喧嘩になったが、後にはこの曲が大変気に入っていたという。
比左志0216.叱られて
「浜千鳥」などと同じような童謡風な歌曲で、子供が歌うのはかなり難しい。 "叱られて..." 昔の人は誰でも子供のときには経験している、そのときの寂しい気持ちを歌ってこそ、味わいの出る曲である。大正9年「少女号」4月号に発表された。清水かつらと弘田のコンビは他に「靴が鳴る」「雀の学校」などがある。
比左志0217.浜千鳥
作曲されたのは大正8年。 "千鳥" は俳句の季語では冬、凍てつく寒さの中で哀しげに啼く千鳥のイメージを、日本的五音階と西洋的な三拍子で作曲されていて、それが見事に融合されている。波のうねりを思わせるようなピアノの伴奏が大変効果的に表わされている。
前年の10月には、成田為三の「浜辺の歌」が発表されていて、弘田はそれに対抗する意識があったかも知れない。詩人、劇作家としても知られている鹿島鳴秋とのコンビの曲には、他にも「金魚の昼寝」「お山のお猿」などがある。
比左志0218.小諸なる古城のほとり
明治32年、島崎藤村は小諸義塾の教師として小諸に赴任して来た。しかし塾の経営は芳しくなく給料は減額される一方だった。土地の豪農神津家の援助のもと、この他で詩集、小説「破戒」などを書き続けた。この詩は第四詩集「落梅集」(34年)に収められている。軽井沢の星野温泉に投宿していた弘田龍太郎を、藤村が詩をたずさえて直接作曲を依頼したという。大正14年8月に作曲された。
この詩を見ると高校時代、国語の先生にこっぴどく絞られたことを思い出す。国語の時間なのに得意げに歌うこの詩に、先生にとっても特別な思いがあったのだろう。
比左志0219.浜辺の歌
この詩は、京北中学の教師をしていた林古渓が、牛山充(東京音楽学校講師)主宰の雑誌「音楽」に大正2年8月に寄稿したもの。もともと四節あったものを、原稿を紛失してしまい、三番の歌詞は、三節の前半と四節の後半をくっつけて、出版社が出版してしまった。これでは意味が不明になってしまったので、作詞者は三番を歌うことを好まなかった。
比左志0220.月待草
草川信は、ヴァイオリニストでもあるが、童謡作曲家として有名であり、「夕焼け小焼け」「ゆりかごの歌」などがある。この曲には前奏と後奏の部分にオブリガート(フルートで演奏すると効果的)があるが、今同は省いた。
ピアノの部分も弾きやすく若干手直しした。
比左志0221.宵待草
宵待草という植物はない、月待草(正式名まつよいぐさ)を、夢二が語感のよさから字をいれかえて宵待草とした。待宵とは陰暦8月14日の夜のことで、翌日の満月を待つ宵という意味。
抒情挿絵画家として有名な竹久夢二の詩に、ヴァイオリニストの多忠亮(おおのただすけ)か作曲し、大正7年に楽譜が出版された。
二番の歌詞は、高峰三技子主演の同名の映画を作り、その映画で高峰が歌うには一番だけでは物足りない、ということで二番の歌詞を西条八十に依頼してできたもの。
比左志0222.妹に
いろいろな詩人の詩を四篇づつ集めて、1931(昭和6年)から約20年の歳月をかけ、組歌「現代詩集」は第四集まで作曲された。この「妹に」は第四集の四曲目で、フォーレ風のリディア調が用いられている。箕作は歌曲集が出来ると、それを基に器楽曲を作曲する場合が多いが、この曲はあまりにも声楽的で器楽の素材にならなかった。
比左志0223.悲歌 −海の幻し−(歌謡組曲「亡き児に」より)
箕作秋吉は東京帝国大学応用化学科卒で、戦前は作曲は余技であったが、戦後は作曲に専念した。この曲は三曲からなる歌謡組曲「亡き子に」の3曲目で、1「賛歌」2「子守歌」は箕作自身の作詞。
「悲歌」はもともとは動物(小鳥かなにか?)の死を悲しんで作ったものを、作曲者が“亡き児"に置き換えてしてしまったらしい。昭和2年に作曲。

五味比左志〜合唱とともに〜