VOL.06日本抒情歌〜解説〜
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VOL.06日本抒情歌〜解説〜



比左志0601.お母さんおぼえていますか
昭和29年から10年間、大阪のABC朝日放送で「クレハホームソング」という番組が放送され、多くの健康的な明るい歌が流れた。これはその番組で発表された曲で、新作186曲の中では4位にランクされた。1位は「川は流れる」、2位は「こいさんのラブコール」、3位は「踊子」だった。
比左志0602.あのお人
昭和17年、三上孝子独唱会のために作曲された、「四つの短い詩」の中の三番目の曲。急な話しだったので二〜三日で書き上げたが、私の代表的な歌曲です、と作曲者は言っている。
比左志0603.花林
全体を副七の分散和音のピアノ伴奏に旋律が乗せられた、ト調のエオリアン旋法で書かれている。ピアノは透きとおるような美しい伴奏で書かれてあるが、旋律は少し単調すぎる、と思うのは自分だけかな。どこか一つ盛りあがるところがあれば、もっと演奏される機会が多いであろうと思ったりもする。しかし美しい曲である。
比左志0604.さくら横ちょう("二つのロンデル" より)

比左志0605.さくら横ちょう
加藤周一の詩による「二つのロンデル」の二番目の曲で、昭和26年5月、フランス留学前に作曲され、畑中更子によって放送発表された。ロンデルとはロンド形式で書かれているという意味で、ここではABACAという形 "春の宵......" が三回繰り返して歌われる。
作曲者は、歌曲作曲にあたって、詩の内容表現に専念する余りレスタティーヴ風なものに走るのは、ドビュッシーなどの例外を除いて危険なものと考え、ピアノとの二重奏として、できるだけ輪郭のはっきりした旋律で純音楽的にも興味を持続できるものを書くように努めている、と述べている。

評論活動をしながら詩を書いていた集団の、マチネ・ポエティクが昭和23年に出版した詩集に、中田喜直が25年に作曲して、37年《マチネ・ポエティクによる四つの歌曲》として発表された、その中の二曲目。 同じ詩には前記の別宮貞雄の曲があり、両方とも傑作であるが、こちらの方が声楽的に歌いやすく出来ていて、声楽を勉強している人達の発表会にはよく歌われる。
比左志0606.おかあさん
昭和39年に「こんにちは赤ちゃん」で日本レコード大賞を獲得した梓みちよのために、所属の渡辺音楽出版が中田喜直に作曲依頼したもの。出来上がった曲の前奏部分に、梓みちよがクレームをつけて、前奏部分を書き直したというエピソードがあった。
お母さんという題名の曲、また母を歌った曲はたくさんあるが、父を歌う曲がほとんど無いというのは、父親の存在が薄いということか、絵にならないということか。
比左志0607.むこうむこう
昭和36年1月の作品。やさしい言葉で、全部ひらがなで書かれたこの詩の、ナイーブな心もようを、明るく親しみやすい表現で書かれている。歌曲ではあるが、ポピュラリティーで誰にでも口ずさめる抒情曲は、瀧廉太郎に始まり、以来非常に数多く作られている、これは日本の誇りでもある。
比左志0608.ねむの花
昭和28年11月、毎日新聞主催の邦人作品による独唱会のとき、ホームソング的な親しみやすい歌をという意図で、四家文子のために書き下ろしたもの。その後女声合唱曲にもなり、独唱曲としてばかりではなく、むしろ女声合唱としての方がより歌われる。中田喜直の曲は、繊細な感覚を表現する曲(詩の内容ともいうべきか)が多く、それは女性が歌うために作られたといった方がよい。だからそれを女声合唱にしても違和感なく受け入れられて歌える。
比左志0609.夏の想い出
尾瀬湿原を一躍有名にしたこの曲は、昭和24年6月13日に放送の「ラジオ歌謡」で初めて皆が耳にした。歌ったのは石井好子。この曲も女声二部・三部合唱曲に編曲され、子供から大人まで好んで歌われるようになった。
比左志0610.たあんき ぽーんき ("六つの子供の歌" より)
終戦間もなくの昭和22年、新進作曲家のグループ「新声会」の発表会で、畑中更子が歌い発表した《六つの子供の歌》の中の一曲。短い休符やシンコペーションを巧みに取り込んで、わらべうたを歌うように、自然に心がはずむような歌に仕上げた。
比左志0611.霧と話した
昭和35年、関種子のリサイタルで初演された。ややポピュラーな歌曲であるが、失われた恋の想いの心内を表現して歌うには、かなりの歌唱力が必要である。
比左志0612.ちいさい秋みつけた
昭利30年11月3日、NHK放送記念祭の《秋の祭典》に、何人かの作曲者に委嘱して出来た中の一曲。一回の放送で終わらせるのを惜しだ中田喜直は、ポニー・ジャックスの歌でレコード録音し、昭和37年のレコード大賞童謡賞を受けてから、この歌が有名になった。
比左志0613.心の窓にともし灯を
昭和34年の暮れ、歳末助け合い運動の一環として作られ、NHKテレビの「歌の広場」で、ザ・ピーナッツによって披露された。その後テレビ歌謡の《今月の歌》になり、放送されているうちに広く知られるようになった。中学校の教科書にも載り、また女性合唱としても歌われ、スタンダードの曲となっている。
比左志0614.おやすみ("六つの子供の歌" より)
「たーんき ぽーんき」と同じく、《六つの子供のうた》の中の六曲目。 "おやすみ おやすみ......" のメロディーは一度聞いたら覚えてしまう、だからといって簡単な童謡的な歌ではない。いつまでも心に残る、あたたかく、やさしさのある曲である。
比左志0615.雪の降るまちを
昭和24年9月、NHK放送劇、内村直也原作の「えり子と共に」の放送の時、30分の放送時間のわくに台本が合わなくて、歌を挿入することにして、素早く詩を書き、中田喜直に曲を頼んで、文学座の南美江と阿里道子が歌った。
これを昭和28年2月2日「ラジオ歌謡」で、フランスから帰ったばかりのシャンソン歌手高英男が歌い、全国的に広まって歌われるようになった。ショパンのピアノ曲と旋律が似ている、ということでも話題になった曲でもある。
比左志0616.しぐれに寄する抒情
昭和21年3月の作品で、《五つの抒情歌・その1》の3曲目。同年5月に畑中良輔により初演。 "短い詩の中にも激しいものを強くぶつけて歌っていただきたいが、その中にも特にピアノ伴奏において、繊細な心くばりを忘れないでいただきたい。" と作曲者は述べている。ゆらめくようなピアノ伴奏にのせられて、よどみなく自然に流れ出るメロディーで歌われるこの曲は、同じ詩に作曲された平井康三郎の曲より好まれて演奏される。
比左志0617.花の街
戦後のまだ束京が荒廃した町中であった昭和22年、詩人の江間章子はNHK「婦人の時間」の委嘱で "今に束京にも花咲く街になって欲しい" という願いを込めて、この詩を書いた。これを女声合唱にして放送したところ、新鮮な曲だと好評だったので、この番組のテーマ音楽として11年間も放送された。
比左志0618.はる
昭和27年に刊行した谷川俊太郎の第1詩集「ニ十億光年の孤独」から選んだ1篇に、29年に作曲した。同年三宅春恵によって披露された。
團伊玖麿は "歌は私の心の日記であり、仕事の故郷である。歌は私の居るところ何処へでも必ずついてくる。決して離れることのない伴侶である。" と彼の歌曲集に記している。團は平成13年5月、訪問中の中国でその生涯を綴じる直前まで、歌曲の作曲は行われた。
比左志0619.藤の花
生活の郷愁を詠いつづけて来た静かな詩人大木実の詩集「屋根」から、抒情歌として3曲にまとめて作曲した中の3曲目。この曲を作曲するにあたって、作曲者は "耽美的な要素のある詩は歌曲になった時に、えてしてセンチメンタリズムに堕しやすいが、それをさけて美しい品の良いものにしたかった。" と述べている。昭和30年頃の作品。
比左志0620.こもりうた
野上彰は五人の子供がいるが、出生した時それぞれ「子守歌」を作って贈っている。この歌は長男の草が誕生した時作ったもので、詩情豊かなメルヘンの世界を描いた美しいバラードである。NHK「婦人の時間」の依頼で、昭和26年に作曲、ソプラノ栗本尊子が歌い放送された。
比左志0621.落葉松
野上彰が昭和22年、軽井沢で作詞。北原白秋が大正10年、やはり軽井沢を訪れた時に書いた詩に「落葉松」という詩がある。 "からまつの林を過ぎて からまつをしみじみと見き..." という有名な詩で、これには何人かの人が曲を書いている。
昭和47年12月、野上の未亡人が野上の自筆の遺稿詩数扁を四谷文子のもとへ届けた。四谷はこれを野上と親交のあった小林秀雄に渡し作曲を依頼した。小林はこの中の「愛のささやき」とともに、野上の詩から「落葉松」を昭和47年作曲して、48年4月24日の四谷文子主催の「第9回・波の会発表演奏会」で小林久美が歌い発表された。51年には女声合唱曲として編曲され、これもよく演奏される。 "センチメンタルに陥らず、起伏の明瞭な演奏を望む" と作者は記している。
比左志0622.ねむの木の子守唄(皇后陛下高校時代のお作詩)
皇后さまが高校時代に学友に書いた詩を、この学友が無断で女性週刊誌に載せてしまって、反響を呼んだが、作詞の著作権を日本肢体不自由児協会に寄付された。山本直純夫人の正美が曲をつけ、昭利41年NHK「歌のメリーゴーランド・正月特集」でペギー葉山と合唱団の歌で紹介された。

五味比左志〜合唱とともに〜