VOL.09世界の歌(ドイツ、イタリア、フランス)〜解説〜
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VOL.09世界の歌(ドイツ、イタリア、フランス)〜解説〜



比左志0901.野ばら
この民謡的な抒情詩「野ばら」は、ゲーテ(1749〜1832)の詩の中で最も多くの作曲者が作曲している。約120曲あるそうですが、その中でもシューベルトとこのウェルナー(1800〜1833)の曲が皆に好まれて歌われている。ウェルナーは男声合唱曲やゲーテの詩による歌曲を書いているが、この歌以外は知られた曲はない。この「野ばら」は合唱でもよく歌われている。
比左志0902.ローレライ
ドイツの詩人ハイネが作ったこの詩は、ライン河の岩の上でいつも髪を櫛けずりながら歌うローレライ伝説に基づいて作った。ローレライが歌っている岩の辺りは急流になっていて、美しく歌うローレライの歌に聞き惚れて近づくと、舟は岩にぶつかり沈んでしまうという。
作曲者のジルヒャー(1789〜1860)は、民謡的な歌曲をたくさん作っているが、ローレライ以外、同時代の歌曲作曲家シューベルトほど歌われるような曲はない。しかし男声合唱愛好家にとってはなじみのある作曲家。
比左志0903.真実の愛
ドイツ民謡の中でも古くから歌われてきたこの歌に、女流詩人ツェツィが手を加えキュッケン(1810〜1882)がまとめあげた。永遠に変わらぬまことの愛を歌ったもの。同じドイツの作曲家ブラームスが言びそうな題材である。
日本では大正4年、堀内敬三が中学を卒業したばかりの時の訳詞である。
比左志0904.故郷を離るる歌
日本でも大正初期から愛唱されている歌のひとつで、女学生の間で三部合唱として歌われた。ドイツ民謡というより日本の愛唱曲といった方がよいくらい "園の小百合..." という歌詞になじんでいる。
比左志0905.モーツァルトの子守歌
長い聞「モーツァルトの子守歌」として親しまれて来たが、モーツァルト〈1756〜1791)の作曲ではなく、モーツァルトのファンであった医学博士のベルンハント・フリース(没年不祥)がF.W.フォスター(1746〜1791)の詞に作曲したもの。
訳詞は大正13年。堀内敬三はアメリカに留学中からたくさんの外国曲を訳詞しては日本に送り、また持ち帰った楽譜を訳し日本で出版した。
比左志0906.シューベルトの子守歌
シューベルト(1798〜1828)には「子守歌」と題した曲は4曲あるが、この曲は1816年、シューベルトが19歳のときの作品。シンプルなメロディーとハーモニーの中にも芸術性の高いシューベルトならではの心温まる作品。
比左志0907.ブラームスの子守歌
ブラームス(1833〜1897)が若い頃、ハンブルグで女声合唱団を指導していたときのメンバーの一人、ベルタ・ファドベル夫人がウィーンで次男を誕生したとき、1868年の夏、ブラームスはこの曲と共に手紙を添えて彼女に送ったという。歌は民謡的であるが、ピアノの伴奏はワルツになっている、これは彼女が大変ワルツが好きだったからである。ブラームスの心優しい一面がうかがわれる。
比左志0908.眠りの精
ドイツ民謡で、「眠りの精」というのはドイツ語で「砂の人」と言い、大きな袋に砂を詰め背負い、眠らないで目を開けている子供たちに砂を振りかけるという、だから目をつむって早くおねんねしなさい、と母親が語りかけて歌う歌。ブラームス20才の頃の作品で、シューマンの子供たちのために編曲した14のドイツ民謡の中の一曲。
明治38年発刊の「女学唱歌(1)」に「秋漁」という歌詞で載っていたが、これはあまり歌われなかった。この訳詞は堀内敬三の大正14年の訳詞。
比左志0909.赤いサラファン
世界中で歌われているロシア民謡のひとつ。作曲者のヴァルラモフ(1801〜1848)は200曲以上も歌曲を作っているが、これが一番有名。
赤いサラファンというのは、ロシアで結婚したての女の着物で、長くて袖がない服。これを作るためには刺繍に何年もかかるという。年老いた母が、娘のために赤いサラファンを縫いながら、若かった昔を思い出し、娘と会話している様子か描かれている。
比左志0910.コサックの子守歌
日本では昔から親しまれている曲だが、現在ロシアではほとんど歌われていない。コサックの歌というよりもロシア・ジプシーの旋律ではないかといわれている。スラブ民族共通の美しい哀愁を帯びた歌である。
比左志0911.追憶
女学生たちに愛唱されて来たスペイン民謡であるが、スペインのどこの民謡だか分からない。英語で書かれた楽譜(ただスペイン・メロディーと書かれていた)を誰かが日本に持ち込んで、それに明治大学国文学教授の古関吉雄が、遠く離れた故郷を思う気持ちと、帰り来ぬ日々をテーマにして歌詞をつけた。それが、メロディーとともに日本人好みとなり愛唱された。
比左志0912.ラ・スパニョーラ
この歌がいつ頃日本に入って来たか分からない。太平洋戦争終戦の2週間前に、結婚生活の破局から自殺した、薄命で美人のプリマ・ドンナ関屋敏子は、イタリアに留学し、その後スペイン行きのイタリア歌劇団にスカウトされ、各地で活躍した。その際持ち帰ったのではないか。昭和9年、日本ビクターより堀内敬三の訳詞で吹き込まれている。
比左志0913.遥かなるサンタ・ルチア
E.A.マリオ(1884〜1961)が1919年に作詞・作曲した。ピェディグロッタの音楽祭で第一位を獲得、彼の数多い民謡調の曲の中でも特に広く愛唱されている。郵便配達夫だった彼はアメリカに渡り、この曲の普及に努めたという。
美しいナポリを離れて船出する舟人の、切々たる情を美しい調べにのせて詠った、ナポリを代表する名曲。
比左志0914.アル・ディ・ラ
1961年のサン・レモ音楽祭の優勝曲。アメリカ映画「恋愛専科」のラブテーマに使われて世界中に流行した。作詞のモゴールとはコンビで毎年のように、サン・レモで作品を生み出している。スロー・ロックのリズムにのって美しく歌う、情熱的な愛の歌である。
比左志0915.ラ・ノヴィア
「泣きぬれて」という日本題名もあるとおり、偽りの愛を誓う悲しい花嫁の心を詠った歌である。イタリアン・カンツォーネとして有名であるが、実はアルゼンチンのヒット曲で、チリ生まれのホアキン・プリエトが、1961年に作詞・作曲して、弟のアントニオが歌ったロック・バラードである。
比左志0916.マンマ
1941年の映画「マンマ」の主題歌で、スクリーンでは当時の名テナーのべ二アミーノ・ジーリが歌った。第二次対戦中、ラジオ歌謡として歌われ、母を思う兵士たちの間で大流行した。1960年にはコ二一・フランシスが歌ってアメリカでも大ヒットした。ぺギー葉山が昭和39年に、イタリアから持ち帰って日本に紹介して以来、多くの人によって、よく演奏会にもとり上げられ歌われている。
日本語の訳詞は一番しかないため、一般的には一番の歌詞を日本語とイタリア語で歌うことが多い。二番の歌詞はこの録音のために小生が書き加えた。
比左志0917.枯葉
詩人ジャック・プレヴェールとジョセフ・コスマのコンビによる、シャンソンの名曲中の名曲。エディット・ピアフに見いだされたイブ・モンタンが、1946年の映画「夜の門」の中で歌った。しかし始めはあまりヒットしなかったが、1950年になってアメリカから逆輸入してからパリでも人気かでて来た。以来シャンソン歌手ばかりではなく、ジャズ歌手や多くのミュージシャンがこれを演奏している。
比左志0918.詩人の魂
シャルル・トレネが1951年に発表し、翌年にはイヴェット・ジローが歌ってディスク大賞を獲得した。軽妙に刻んでゆく詞とメロディーが何ともいえない洒脱さを感じさせてくれる、トレネの円熟期の代表的な不朽の名作。
比左志0919.ラ・メール
「詩人の魂」とならんで、シャルル・トレネの代表作。作曲は1938年ですから、彼の初期のころの作品。しかし当時はあまり評判にはならなかったが、第二次対戦でパリが解放された直後、トレネのピアノ伴奏者アルベール・ラスリの編曲で、再び歌いだしたところ、大いにヒットした。
トレネが生まれ育ったところは、ピレネー山脈と地中海にはさまれたナルボンヌの町で、この歌は、その地中海の入江を詠ったといわれている。
比左志0920.聞かせてよ愛の言葉を
1930年、リュシエンヌ・ボワイエが歌って、シャンソンが初めて世界に広まった最初の曲。日本でも1935年(昭和10年)、ボワイエの歌でコロンビアから発売された。しかし楽譜の方が少し早く入って来たようで、昭和6年頃から歌われていた。この頃はシャンソンやアメリカからジャズ、ラテン音楽がたくさん入ってきたが、外国の曲はすべてジャズと呼ばれて歌われていた。
比左志0921.愛の賛歌
シャンソンを知らなくてもこの歌だけは知っているという人も多いくらい、あまりにも有名なシャンソン。
エディット・ピアフ(1915〜1963)自身が詩を書き、ピアフの友人である女流作曲家マルグリット・モノが作曲した。1949年にこの歌が発表されたが、その年の10月ピアフの恋人マルセル・セルダン(ボクサー)を飛行機事故で失って、絶望の中でピアフはこの歌を歌った。
岩谷時子の訳詞は残念ながら、ピアフのその言葉の心情を伝えていないようです。

五味比左志〜合唱とともに〜