|
比左志0801.見上げてごらん夜の星 昭和34年の夏、大阪労音で初演され、36年には東京でも演奏された。最初は伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズと橘薫等が出演していたが、38年には坂本九、九重佑三子が主役を演じ、坂本九が歌うこの歌は、この年のレコード大賞を受けた。定時制高校生たちの生活、学校での勉強、青春の悩みなどを物語のテーマとした。 いずみたくにとっては初めてのミュージカルが大成功に終わり、これ以後ミュージカルを次々と生み出して、自ら劇団「フォーリズ」を主宰し、日本製のミュージカルの普及に力を注いでいった。 |
比左志0802.女ひとり 昭和40年に、永六輔、いずみたく、デューク・エイセスのトリオで、「にほんのうた」シリーズを制作し始めた。この歌はその中の一曲で、京都の風情が浮かんでくる哀調ある歌である。 この曲のヒットで、三千院への参拝客は倍増したという。 |
比左志0803.夜明けのうた 日本テレビの連続テレビ「ぼうや」の挿入歌として主役の坂本九が歌い、レコーディングもしたが、あまりヒットしなかった。その後、岸洋子の朗々とした歌唱はこの歌に合って、しかもラブ・ソング風だったので好評を得、ヒットした。「夜明けの唄」という曲は戦前の人にとっては、昭和11年に「国民歌謡」で歌われた名曲(内田元作曲)の曲が懐かしい。 |
比左志0804.手のひらを太陽に 昭和36年、日本教育テレビ(テレビ朝日)の「木島則夫モーニングショー」の中で宮城まり子が最初に歌い、続いて39年にもNHK「みんなのうた」で歌ったが、あまり反響はなかった。40年の春ボニージャックスが歌ってレコード発売し、この年のNHK紅白歌合戦で歌ったため、皆に愛唱されるようになった。音楽の教科書にも載った。 |
比左志0805.遠くへ行きたい 昭和37年5月、NHK「夢であいましょう」でジェリー・伊藤が歌って発表され、第四回日本レコード大賞作曲賞を受賞した。45年頃からディスカバリー・ジャパンの旅行ブームにのり、また、テレビ番組のテーマ音楽にも使われたりしてリバイバルした。 イギリスのシャーロット・ド・ロスチャイルド女史が「日本の旅路」というタイトルで日本の歌を日本語でCDを出していて、平成12年、日本のテレビに出演したとき、この歌が一番気に入っていると言って歌った。 |
比左志0806.誰もいない海 最初に歌ったのはシャンソン歌手の大木康子で、昭和43年9月、CBSソニーから発売されたが、陽の目を見なかった。その後、越路吹雪とトワ・エ・モアが競演して話題を呼び、45年頃からヒットしはじめた。作曲者は越路吹雪の夫君で、彼女のリサイタルにもこの歌を舞台でよく歌っていた。 |
比左志0807.この広い野原いっぱい 第一期フォーク・ブームの時にデビューしたシンガーソング・ライター森山良子のデビュー作品。昭和41年、レギュラー出演していたラジオ番組で30分で作曲させられたという。作詞者は始め高橋兵蔵だったが、後に小薗江佳子に改められた。彼女は手芸デザイナー。いかにも女性的な、シンガーソング・ライターの作った曲という感じで、同世代の女性たちに多くの共感を呼んだ。 |
比左志0808.赤い花白い花 昭和45年、歌声喫茶で歌われていたのを、フォーク・グループ赤い鳥が歌って、皆に知られるようになった。52年にNHK「みんなのうた」の中で芹洋子が歌って放送されてからいっそう広く歌われるようになった。 中林ミエは群馬県太田市の出身、中学三年のとき田舎道を散歩しているときに出来たもので、ごく親しい友達の間で歌っていた。その中の誰かが歌声喫茶で歌って、それを赤い烏が聞いて歌うようになったという。女性らしい清楚な感じの曲である。 |
比左志0809.今日の日はさようなら フォーク・ブームが始まった昭和41年、森山良子が歌ってヒットした。42年1月、アメリカのフォーク界の女王ジョーン・バエズが来日した際、森山と一緒にこの歌を歌ったのがテレビに流れ有名になった。森山がまだ学生時代、学生のコンサートでエンディングに歌っていた。コンサートの最後に歌われるのにふさわしい曲である。 |
比左志0810.耳をすましてごらん 昭和47年4月から1年間、NHK朝の逓続テレビ小説「藍より青し」の主題歌。これを歌ったのが本田路律子、そしてこの年の紅白歌合戦に二回目の出場を果たした。ドラマは九州天草を舞台に、戦前戦後をとおして、たくましく生きる女の姿を描いたもの。真木洋子、大和田伸也らか主演した。 |
比左志0811.死んだ男の残したものは 昭和40年4月「ベトナムの平和を願う市民の会」に、詩人の谷川俊太郎が作曲者の武満徹に頼んで出来たもの。武満は "メッセージソングのように気張って歌わず「愛染かつら」を歌うように歌ってほしい" と言って楽譜を渡した。 その後、高石友也、石川セリ、森山良子、小室等といったフォーク歌手たちがこぞってこれを歌って、大衆に浸透していった。ベトナム戦争時代に、反戦歌が盛んに歌われていた頃の遺産ともいうべきもの。 |
比左志0812.白い想い出 ジャズピアニストの山崎唯が独身時代、後の夫人となる久里千春に捧げた曲。TBSの「みんなで歌おう」の《今月の歌》として取り上げられ、この番組のレギュラーであったダーク・ダックスが昭和38年、レコード発売した。干昌夫の夫人であったジョーン・シェパードが、日本語で歌っていたのを記憶している人も多いと思う。 |
比左志0813.銀色の道 昭和41年にNHKテレビ番組「夢をあなたに」の《今月の歌》でダーク・ダックスか歌って発表された。その後ダーク・ダックスのオープニングのテーマソングとして歌われている。明るい明日への希望をこめてという歌詞のこの歌を教育の場にと、高校の教科書にも採用された。 |
比左志0814.花のメルヘン この曲の最初は、北野ルミ子がレコードの裏面に入れてあったものを、作者の敏トシがダーク・ダックスの事務所に持ち込み、少し手を加えて、ダークが昭和45年にレコード発売した。 始めに入っているかわいい声のセリフは水原戊(プロ野球監督)の孫、水原由実子ちゃん(当時3歳)。 |
比左志0815.新妻に捧げる歌 中村メイコの詞に、ご主人の神津善行が作曲した。昭和39年、江刺チエミがキングレコードから発売されたもの。このラブ・ソングは新婚カップルの門出にふさわしく、今では結婚式の披露宴には欠かせない曲としてよく歌われている。私も娘のために、結婚式では歌わなかったが、蛍の賛歌とこの曲をテープに吹き込んで手渡した。 |
比左志0816.芭蕉布 沖縄がまだ本土復帰前の昭和40年の秋、琉球ラジオ放送のラジオ・ホームソングでハワイ二世のクララ新川の歌で放送された、沖縄替歌の歌である。 沖縄の女性は嫁入りすると、屋敷内に芭蕉を植え、その芭蕉から糸を採り布を織る、それを芭蕉布という。53年にNHKの「名曲アルバム」でも紹介された。 |
比左志0817.花(すべての人の心に花を) 沖縄でロック、フォーク調の歌で人気を得ている、嘉納昌吉の代表作で、昭和55年に発売された。平成2年にAXIA−CFのイメージソングに使われ、3年にはNHK紅白歌合戦こ出場した。嘉納が高校生のときに東京オリンピックを見ていて、 “泣きなさい…” のフレーズか浮かんだという。この歌は、東南アジアでも好まれ歌われている。 |
比左志0818.さとうきび畑) 作曲者の寺島尚彦が、沖縄旅行の際に受けた印象をもとにして、昭和42年に作曲された。初演は新居浜で行われた四国労音で、田代美代子が歌った。9分以上もかかるこの曲は、なかなかレコード化されず、森山良子がコンサートで取り上げ、LPに収録されようやく陽の目を見た。その後、短縮版であるがNHKの「みんなのうた」でも歌われ、広く知られるようになった。 “ざわわ” という言葉が72回も歌われ、反戦歌であるが、淡々として歌われることが、かえって多くの人を引き付ける魅力をもっている。 |