VOL.03日本抒情歌〜解説〜
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VOL.03日本抒情歌〜解説〜



比左志0301.時計台の鐘
大正10年の夏、東京音楽学校を卒業した声楽家の村井満寿は、同期生でヴァイオリニストの高階と札幌へ演奏旅行に出掛けた。音楽会は不評だったが、札幌の空に響く鐘の音を聞いた印象を、東京に戻ってから作曲したもの。昭和6年4月、高階の夫人となってから彼女が録音してオデオンレコードから発売された。
比左志0302.椰子の実
健全な歌を国民に、という肝入りで始まった《国民歌謡》は、昭和10年6月から大阪放送局で始まり、東京と交代で放送されるようになった。最初の曲は「日本よい国」(服部良一作曲)、16年に《国民合唱》と改称され20年の「お山の杉の子」(佐々木すぐる作曲)で敗戦を迎えた。
今でも歌われている名曲は数々あるが、東海林太郎指導で11年7月に放送されたこの「椰子の実」はその中で最大のヒット曲。
明治30年の夏、愛知県渥美半島の恋路が浜に流れ着いた椰子の実を、民族学者の柳田国男が見て、そのことを島崎藤村に話したことからこの詩が生まれた。詩集「落梅集」に収められている。
比左志0303.辛夷の花
「汽車ポッポ」などの童謡を書いた富原薫は、静岡県御殿場市の小学校教師をしていて、綴り方教師としても著名だった。この曲は昭和5年4月、シンキョウ社発刊の「新選芸術唱歌第4巻」に二声部の合唱曲として発表された。
比左志0304.別れし子を憶う
作曲者の坂本良隆の留守宅に、彼の古い友人であり、30年も消息を断っていた雫石義高が自作の詩2扁を持って訪ねて来て、作曲を頼んで帰った。郷里の盛岡で、舞踏家の石井みどりさんを招いて、美術と音楽と舞踏の総合音楽会を開きたいということだった。昭和22年7月作曲し発表された。その発表会の後、雫石は郷里を捨てて立ち去ったという。
比左志0305.ちんちん千鳥
この詩には、他にも成田為三、山田耕筰、今川節などが作曲しているが、この近衛秀麿の曲が一番知られ歌われている。もともとは彼の親しい友人の藤原義江のために、昭和2年に作曲されたもの。
"千鳥の啼き声は、親のない子が月夜に親を探している声だ" といういい伝えからこの詩が生まれた。
比左志0306.嫌な甚太
昭和2年から4年にかけて作られた「歌曲集第一巻」に含まれている。清瀬保二はこの頃、歌曲をたくさん書いた時期でもある。
比左志0307.海の若者
佐藤春夫のこの詩の曲というと、合唱愛好者には大中恩の混声合唱曲がなじみであり、最近ではあまり歌われなくなったが、以前はどの合唱団でもよく歌った。独学で作曲を学んだ清瀬ならではの、独自性を持った曲である。バリトンで歌うとより表現が効果的。
比左志0308.春の唄
昭和12年3月、「国民歌謡」で発表された。戦争の影が刻々と迫って来て、人生のわびしさを謳った歌謡曲、ブルースなどが流行っていたこの頃、「国民歌謡」で流れる明るい歌に、国民はほっと一息つける時間であった。
ポリドール・レコードから発売されて、歌っているのは月村光子、本名渡辺光子、東京音楽学校出身、特徴ある魅力的な歌声であった。
比左志0309.少年
作曲の諸井三郎は現在作曲家として活躍している諸井誠の父親で、昭和6年に作曲された。夕暮れの清浄な景色を詠った、三好達治の美しい詩に魅せられて作曲されたという。
比左志0310.百姓唄
昭和4年の作品。この作品について作曲者は "よく暗記して歌うとこの曲の面白みのある味が出てくる。少々ひねくれたリズムがあるが、勇敢に歌いのけることが肝心である。妙に上品振るとかえって下品にひびく、つまり百姓の唄らしく朗らかに歌えはよい。" と言っている。
比左志0311.母の歌
昭和12年7月5日「国民歌謡」として、大阪放送合唱団の歌で放送された。この7月は日中戦争か始まった月で、世の中は戦時体制一色になった。放送文学賞入選の詞で、三番の歌詞はこの当時の世の中を反映したもの、現在では歌われない。12年11月、ビクターより中村淑子が吹き込みレコードが発売された。
比左志0312.富士山見たら
昭和4年3月、東京日々新聞に発表した時は「旅の街道」という題名であったが、翌年改名された。5年四家文子、8年藤原義江の歌でそれぞれビクターより発表された。新民謡が盛んに作られた当時の中で、これは芸術性の高い曲である、と作曲者本人が述べている。
比左志0313.アカシアの花
橋本國彦最後の作品。病状の橋本が昭和23年7月の「ラジオ歌謡」のために書き、高木清の歌で放送された。岡本敦郎がしばしば歌い彼の持ち歌にもなった。作詞者の松原直美が、石川啄木の後を訪ねて北海道へ行った頃の思い出を、アカシアの花に託して作詞したもの。
比左志0314.お菓子と娘
巴里の娘たちは、本当にお菓子が好きである。角の菓子屋を覗くと、粋な巴里の娘たちが立ちながらムシャムシャと無遠慮に食べている。その姿が実に天真爛漫でいい、と西条八十が述べている。「ラ・マルチーヌ」は、19世紀のロマン派詩人の先駆者で、ブロー二ュの森に近い街角に銅像があった。
橋本はこの詩にふさわしく、爽やかで明るいシャンソン風な曲に仕上げ、四家文子に近づきになったしるしに作曲したと記している。昭和3年10月に共益商社から楽譜が山版された。
比左志0315.薊の花
昭和3年に友人のバリトン歌手徳山lに贈った作品。この曲について作曲者は "私の歌曲中最も落ち着いたものの一つで、私は野薊が好きで。これを聴いて、薊咲く野原に、一人の女のいる風景画を想像して下さい" と書いている。
比左志0316.お六娘
日本民謡に取材した曲だが、フランス近代の和声法とモダニスティックなリズムで書き上げている。浄瑠璃風な語り口で作られたこの曲は、コンサート歌曲としてよく演奏される。昭和13年4月、作曲者自身のピアノ、藤原義江の歌でビクターから発売されている。
比左志0317.夢見たものは
高木東六得意の流れるような分散和音の伴奏に、シャンソン風な美しいメロディーが乗っている。作曲者は"あまり気張らずに、あこがれをもって歌うように”とアドバイスしています。
比左志0318.紺屋のおろく
この曲には混声合唱に編曲したものがあり、そこには作曲者は "日本的で古風なやわらかい情緒を充分感じながら全体のバランスを保ってください。ピアノの伴奏が重要な役割を果たしていますので、粗雑なピアノでは困ります。よく練習して一音もこぼれない清潔な伴奏が望ましいのです。ピアノはお琴の幻想を感じてくださればよい" と書いてあります。
この詩には何人かが曲を作っている。多田武彦作曲の男声合唱組曲「柳川風俗詩」の中にこの「紺屋のおろく」か入っていて、男性合唱団にとっては重要なレパートリーとして歌われる。
比左志0319.麦笛
昭和22年NHK委嘱作品。49年の春頃「ラジオ歌謡」として放送されたが、速くて一般の人には口が回らないということで、あまり話題にはならなかった。のどかな田園風景を、春に浮かれ出た気持ちを諧謔的に歌っています。旋律は陽旋法風に書かれていて、声いっぱいに使って、よりスケルツォな感じをだしたらおもしろいでしょう。なお平尾貴四郎の歌は、作曲者の娘の平尾はるながピアノ伴奏を、姪の鐘ヶ江由貴子が歌ったCDが出ている。
比左志0320.雨の夜
昭和7年5月発行の「世界音楽全集21巻・日本歌曲集」の中に収められている7曲ある中の一曲、この曲の作曲年は記載されていないが、他の曲には昭和3〜7年と記されているので、この曲もその頃の作曲であろう。
比左志0321.ふるさと
作曲者は "最近、旧作を整理した中で、残すことにした曲の一つ、日本の現代歌曲にはテンポの速いそして流れるようなリズムのものがほとんどないのに気づいて、そのような歌曲を書こうとしたのが作曲の動機でした。全集に収めるにあたり、伴奏の部分を少し手を加えた。" と書いてある。(昭和31年発行の全集より)
比左志0322.かごかき
貴志康一がドイツ留学中、昭和7年「日本の夕」を催し、自作初演歌曲、その他を発表して、好評を得た。この曲については作曲年は書かれていないが、たぶんその時に一緒に書かれたもの中の一曲であろう。大阪生まれの貴志らしい曲である。

五味比左志〜合唱とともに〜