第七節 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色
「色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ちこれ空なり、空は即ちこれ色なり」
色とは壊れることを前提にこの世に存在し、起こるすべての物質的現象のことであった。
空とは何か。平井俊栄氏の『仏教経典選2 般若経』によると、諸々の存在物は因縁によって生じたものであり、固定的な実体というものが無いということとある。
人間は、自分で生まれてこようと思って生まれてきたのではない。父・母という因、つまり原因と、生まれることができ、そうして今ほどまでに成長できたという緑、つまり条件がなりたってはじめてわたしがここに存在するのである。身体に限らず、気持ちとか考え方とか、目に見える・見えない、表現できる・できない、認識している・していないにも限らない。そして、今までに得たもの、失ったものなどに対して「わたしが、このようにして生きてきました」といったとき、それが自分という固有の存在なのだから自分の判断によって生きてきたと、はたして言いきれるであろうか。
生まれてくることになったときから今の今までに私が必然、偶然を問わず、ありとあらゆるものに対して影替を与え、そして受けたと考えると、それは自分というものの中に結果を生じさせる、身のまわりにある因縁があったからこそわたしは存在し得たのである。わたしのまわりにあるありとあらゆる因縁と、わたしの存在とは常に関係しあっているのである。決して「わたし」だけで存在しているのではないといえる。因緑があったから結果があるのだ。逆に考えると、因縁がなかったら結果も起こらないのである。父・母がいなかったらわたしも存在しなかったということである。
白分みずから得たり失ったりしてきたわけではない。得る条件であったり、失う条件があったからそういう結果になったにすぎない。条件が変わってしまえばそれに逆らうことのできない無常なもの、けっして固有でも固定でもないもの、それが空である。
今のわたしはわたしであって、そして十年後のわたしもわたしである。しかし今のわたしとは違うわたしであり、十年後には今のわたしは存在しなくなる。わたしはいつまでもわたしだと思いたくなるが、決して同じわたしは存在しない。わたしというのは常に変化している存在である。だけど何年経とうがわたしが他人になるわけでもなく、死ぬまではわたしである。空とはこのように、実体がないわけではないけれども固定的な実体はないということである。
ここの経を「色不異空 色即是空 空不異色 空即是色」とならびかえて主語を統一して解釈すると、「物質的現象は固定的な実体ではないというわけではない。だけど固定的な実体ではない。個定的な実体ではないということは物質的現象ではないというわけではない。だけど物質的現象なのだ」となる。
羅什の訳では、ここの経は少し違っている。まず「舎利弗 色空故無脳壊相 受空故無受相 想空故無知相 行空故無作相 識空故無覚相 何以故」が入って「舎利弗 非色異空 非空異色 色即是空 空即是色」となっている。
前半部分を解釈すると、「舎利弗よ、物質的現象は空であるため、いづれ変化し滅びる悩(こだわり)は無い。感覚作用は空であるため、いづれ変化し滅びる感覚作用は無い。概念化作用は空であるため、いづれ変化し滅びる知(知恵)は無い。意志作用は空であるため、いづれ変化し滅びる行(行為、活動)は無い。判断作用は空であるため、いづれ変化し滅びる覚(認識するだけでなく、認識したものに対して意識を感受する)は無い。どうしてか、舎利弗よ」となる。
これは、色受想行識が空であるというのはどういうことかを説明しているのである。そして受想行識もまた空であることは、次の「受想行識亦復如是」で説かれているのである。玄奘が凝集されたものだとすれは、羅什は「受想行識亦復如是」に説明を加えたととらえることができる。だから「色空故無悩壊相」の悩にだけ壊を加えるのではなく、その他四つの受・知・作・覚についても 壊を加えたほうがより空についての説明になると考える。
後半部は「色即是空 空即是色」は同じだが、「色不異空」が「非色異空」、「空不異色」が「非空異色」と違っている。わたしの手元にある解説書の中では、池田魯参氏の解説書の中に羅什訳に対する書き下し文が掲載されている。そこでは「色は空に異なるに非ず、空は色に異なるに非ず」とある。わたしには漢文はわからないので、「不」も「非」も同じ打ち消しの助動詞でしか知らない。仮にそうだとしたら、ことばは違うのに意味は「色不異空」でも「非色異空」でも同じになってしまう。これでは羅什と玄奘とがことばを変えた意味合いがでてこない。なので、羅什訳の書き下し文を「色に非ずは空に異なる、空に非ずは色に異なる」とする。
そこで、玄奘訳と羅什訳を簡潔に表してみれは
(玄奘訳) 色=不異空 空=不異色 色=空 空=色 |
(羅什訳) 非色=異空 非空=異色 色=空 空=色 |
となる。玄奘訳は二重否定による肯定で、羅什訳は否定どうしによる肯定である。そして、玄奘訳はさらに簡潔に表すことができる。
である。玄奘が羅什の訳を参考にしていたとすれば、玄奘訳のようにすることによって、さらに凝集できることを示したのではなかろうか。
このことをマックス・ミュラー(以後ミュラーとする)の訳を和訳することによって日本語として表すことができる。「色は空であり、空はじつに色である。空は色と違くなく、色は空と違くない。空であることは色であり、色であることは空である。」
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