第八節 掲帝掲帝 般羅掲帝 般羅僧掲帝 菩堤僧莎訶

この一文はサンスクリット語からの音写である。原典には「ガテー・ガテー・パーラガテー・パーラサンガテー・ポーディ・スヴァーハー」とある。

ひろさちや氏の『入門・般若心経の読み方』によると、この文体は文法的に正しいサンスクリット語の文体ではなく、俗語的な用法を含んでいるという。そもそも「呪」とは、宗教儀式での神歌であったのだからしっかりとした文法でなくてもいいのだ。例えば、わたしたちにとってのお経と同じである。どういうことををいっているのかわからなくても、そのお経を唱えることがとてもありがたいことなのだ、というのはわかっている。「南無阿弥陀仏」でもそうである。このことばの直接的な意味は、阿弥陀さまによりすがっています、である。浄土教ではこれを唱えることによって、どんな人であろうと仏に救ってもらえると説いている。仏を信じ、救ってもらいたいから「南無阿弥陀仏」と唱えるのであり、その唱えていることば自体には、表面的には意味がないのだ。わたしたちの迷い、悩み、苦しみ多い心が、楽しく安らかな心にかえられ、そこに、白然に仏に対する感謝の気持ちが起こるから唱えるのである。これが「呪文」であり「唱えことば」であるのだ。

唱えことばは、唱える行為、意識が重要であり、ことばはそれに付随的であるものなので、わたしたちに何のことだかわかるようなことばでなくても、「南無阿弥陀仏」のように、サンスクリット語からの音写のままでも不都合はない。そして、無理に訳すこともないのである。ふだんわたしたちが使っている「よいしょ、こらしょ」といったものと同じように、唱えことばはその意識、行為を補っているものにすぎない。ことばは、意識、行為をみんなにわかりやすくするためにあるものであり、そしてまた、執着しててもいけないのである。

日本語釈を補足的に付け加えるが、文法が俗語的なものであるため、しっかりとした訳にするのは難しい。わたしのもっている解説書の中にいく通りかの訳が引用されているので、そのまま引用させていただく。


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