第二章 般若心経の「呪」

 第―節 菩提菩薩垂 依般若波羅蜜多故 心無圭礙

「菩薩には、般若波羅蜜多によって心に圭礙が無い」

菩提薩垂とは菩薩のことで、原語「ボーディサットヴァ」をそのまま音写したことばである。また、圭礙とは心を覆うもの、邪魔すること、こだわりのことである。

経に「心」と説いているが、「心」では、心という一部分の場所を指しているような感じがある。心というと、思う、考えるといった思考面にだけとらわれそうになる。だから「からだと心」と言い換えて解釈したほうがわかりやすい。

菩薩の表面的な「からだ」ではなく、菩薩の内に外にもちあわせているあらゆる面において、便宜上わかりやすく五蘊、六根、六境、六識、十二因縁、苦集滅道、智、得、所得などとしておくが、こだわることがない、こだわりがないというのである。

どうして「心」を「からだと心」と言い換えたのか。やはりからだと心とを分離したものとは考えられない。心は意に含まれていて、それにからだの眼・耳・鼻・舌・身を足した六根は、ともに物質的現象に対して機能するものである。そしてこだわりは六根を通して起こるものである。『般若心経』では、ありとあらゆるものにこだわりがおこるから、ありとあらゆるものに空を説いているのである。その中で物質的現象を取り入れる機能である六根のうち、心だけを分離して「空であれば心にこだわりがない」と説くのはおかしい。

また、唯識という考え方でみてみると、六識・マナ識・アーラヤ識という三つの関係がある。六識で取り入れたものをマナ識で思いはかり、考えごとをする。そうしていったものがしだいにアーラヤ識のなかで種子という”エキス”として蓄えられていく。種子というのは、行為、つまり六識がいいものであれば種子もいいものとなり、逆に六識がわるいものであれば種子もわるいものとなっていく。さらに、六識は種子に影響をうけ、よい種子にはよい六識に、わるい種子にはわるい六識となっていくのである。

このように、肉体的行為と意識・思考作用とはつねに密接な関係にあり、単に「心」というだけでなく、「からだと心」つまりは肉体と精神といいあらわしたほうが、よりわかりやすい。

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