第三章 『般若心経』における「苦」と「空」と「呪」

「空」とは、ありとあらゆる現象は「無」、つまり「なくはないけどない」ことをいっているのである。「空」は「苦」から解脱するための実践方法なのである。「苦」は、執着、こだわり、迷い、悩みなどによって起こり、それらは五蘊によって起こり、そして、その五蘊は六識・六根を通して「色」をとらえるのである。

色(この世にあり、起こる物質的現象)は、わたしたちがとらえることのできる六境(色・声・香・味・触・法)に分類され、この六境は、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)によって取り込まれ、受としてそれぞれ眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識となる。これらは想行識によって執着、こだわり、迷い、悩みとなり、それが苦となる。

いつまでも、ある対象物にとらわれることが執着、こだわりとなり、この対象物に比較するものがあるときに迷い、悩みが起こる。これらが苦であり、苦となるのだ。

このように、苦を起こすもとは、想行識にあるとわたしは考える。受で感覚作用したものを概念化し、意志をもって分別、判断するときに智慧をもたないと苦になる。苦にならないようにするには智慧が必要なのだ。

智慧があるとどうして苦にならないのか。智慧は物賀的現象の真理・本質がわかることである。智慧を得る方法は人それぞれ、いく通りもあるが、物質的現象の真理・本質はただ一つである。そして、真理・本質は因縁に左右されず、いつ、どこで、だれがみても変化しないものである。智慧がなければ一つの真理・本質でなくなり、二つ・三つとなって迷い、悩む。このように、一つの物質的現象について迷い、悩むなら、二つ以上の物質的現象においても同様である。それなら、一つとなった真理・本質であるなら執着、こだわりが起こり得そうな錯覚がある。しかしそれは、執着、こだわりが起きてしまうのなら、まだ真理・本質をとらえきれていない証拠なのである。

この真理・本質とは、空とは何であるのかがわかることだといえる。永遠不滅であるものはなく、物質的現象は因縁によって存在するだけのものなのだ。そして、ただ一つとして同じ現象は繰り返さないのである。真理・本質を得た智慧は、真理・本質にもとづき、執着、こだわり、迷い、悩みを起こさない想行識作用をおこなうのである。

では逆に、苦はどうして起こるのであろうか。それは、真理・本質をそのまま受け入れず、押し曲げてしまうところに原因がある。そしてその曲げようとするはたらきは執拗に、また人それぞれに遠った基準を持ち合わしている。なかなかさとりを得られず苦を起こしてしまうのは、まさに執拗といえ、そして十人十色のことばのごとく、人それぞれに違った苦を起こすのである。

はたして、このはたらきは何によるものだろうか。例えば、きわめて条件が似かよって育った双子といえども、個人差が起こるのはなぜであるうか。人それぞれに同一のもの、同一になるものなど一つとしてないのだから、個人差が起こることは自明の理である。それゆえに、この個人差も苦と同様に、苦を起こすもとである想行識作用の違いによるものだと考える。

たしかに、想行識のはたらきの違いが個人差を起こすのである。だが、執拗になるはたらき自体は想行識の中に含まれているが、執拗にまでになるはたらきのもとは別にあると考える。それは欲である。そして想行識と欲とは一蓮托生のものなのである。その欲がどこに位置しているのかというと、行の中にはじめから組み込まれているのだと考える。その行は、想行識の中で特に重要なはたらきをし、ここに苦、または個人差の起こる原因がある。

欲の、行の中でのはたらきは、意志とその方向性の基準のもとになるものとしてはじめから組み込まれている。赤ちゃんが、そのわかりやすい典型的な例である。見たいものを見、触りたいものを触る。このような基準のもととなっている欲はしだいに、気に入る、つまらない、飽きるなどの感情として発達する。こうした感情が、意志とその方向性の基準となっていくのである。そして、欲自体もその基準となるのである。このような感情とは、いわば学習によって起こるものなのである。

他にも、感梢と同じように学習によって、意志とその方向性の基準となるものがある。それは規範と真理・本質である。その説明の前に、これに関連したものである学習方法についても説明しながら、基準となっているものをあげていく。

まず想行識作用についてだが、行と想識はお互いに関係しあって作用しているものである。行のはたらきが想識のはたらきに影響を与え、想識のはたらきが行のはたらきに影響を与え、意志の方向性として蓄積されていくのである。その蓄積が学習であり、その学習していくものとは知恵である規範であり、智慧である真理・本質である。規範は人間として、人間社会の一員として生きるにおいて、学習していかなければならないものである。例えば、ことばであったり、マナーであったり、考え方であったりする。社会規範といったものである。規範が、二つめの基準である。

想識のはたらきは、色で例えれば、眼で見えたとおりに概念化し、判断するものであると考える。例えば、時計・壊れている・自分の・他人のという概念があれば、他人の時計と自分の壊れた時計という判断をする。逆に二極端ではあるが、時計・壊れている・自分の・他人のという判断ができれば、時計と時計ではないもの・壊れているものと壊れていないもの・白分のものと他人のものという概念化をする。想識だけでのはたらきにおいては、智慧である真理・本質を基準としていると考えられる。だから智慧も欲と同様、もともと想行識の中にあるものなのである。しかし、欲にもとづいた行のはたらきによって智慧はかき消されやすいのである。だから欲にかき消されて人は、あらためて智慧を学習する必要に迫られるわけである。このような、学習による真理・本質が、三つめの基準となるのである。

欲と知恵と智慧が、意志とその方向牲の基準なのである。そしてこの知恵と智慧、つまり規範と真理・本領は、欲、及ぴ感情をコントロ―ルする機能となっていくのである。

また、欲・知・智の基準としての作用方法に特長がある。欲と智は、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識のすべての受に対してよく作用し、知は、眼識・耳綴・鼻識・舌認・身識にはよく作用するが、意識に対しては少し劣るのである。

このような基準による想行識のはたらきの違いは、三種類にわかれて起こる。一つめは、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識に、欲・感情の基準を主として想行識作用したタイプ。二つめは、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識に、規範の基準を主として、意識に欲の基準を主として想行識作用したタイプ。三つめは、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識に、真理・本質の基準を主として想行識作用したタイプ。

一つめのタイプは、欲、あるいは感情をむき出して、見・聞き・嗅き・味わい・行動する。しかし、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識と意識、わかりやすくいえば、行動と思っているものとは完全に一致することはない。例えば、いくら鳥と同じように飛びたいと思っても、それは不可能なことである。そのギャップというのが執着、こだわりであり、ギャップが起こることによって執着、こだわりが起こるのである。二つめのタイプも同じである。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識では規範によって欲をコントロ―ルできても、意識においてコントロ―ルしきれない限り、行動と思いとのギャップは起こる。そこに執着、こだわりが起こるのである。三つめのタイプは前二つと違って、、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識において真理・本質によって欲をコントロ―ルでき、行動と思いとのギャップはない、あるいはきわめて小さいので執着、こだわりは起こらないのである。

ここまでのことをを「因・緑・果」で表現すれば、受である眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識は「因」であり、欲は「因」であり「縁」であり、想行識とその中にある感情、規範、真理・本質は「緑」であり、想行識作用を経た受(六識)、六根において、苦となる、さとりとなるのは「果」なのである。 (参照 図解)

真理・本質にもとづいた想行識作用がさとりであり、さとりにとって智慧は重要なキーポイントなのである。空であるのがわかることが智慧である。そして、智慧を得ることがさとりであり、さとりを得ることは、智慧を得ることである。だが、智が「無」、つまり空であれば、さとりも空であることになる。となると、仏教において究極の目的であるさとりを得ることは、ほんとうに存在するものなのか、存在しないものなのか、怪しいものとなるのではないか。

お釈迦さまが説き始めたさとりの世界とは、いくら他の人がそのさとりの世界に近づこうとしてもお釈迦さまの得たさとりと同一になることはない。同一になることはないのだから、お釈迦さまの得たさとりは、苦から遠ざかって身を置くことのできる世界であると、お釈迦さまにしかわからないものなのである。だからお釈迦さま以外の人は、お釈迦さまの得たさとりが完璧なさとりであり、それが存在し、他の人も得ることができると信じ、それに近づこうとするのである。仏教は、これを信じるところからはじまるという。しかし、『般若心経』で説くように、智も「無」であるとすることによって、さとりさえ「あるかもしれないし、ないかもしれない」ものとなる。

そのようなあやふやなさとりとは、いったいどのようなものなのか。この『般若心経』においては、観音さまがわたしたちに与えてくださるもの、としかいいようがなくなる。だから『般若心経』とは、空についての説明でもなく、さとりについての説明でもなく、「呪」を唱えるための説明を説いている経であるといえる。

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