第十四節 無智亦無得 以無所得故

「智」と「知」の違いは、「智」は「知」に含まれていて、一般的な「知る」の意味を除いて、完全なさとりの意味だけを表している。得とは身にそなえること、得ることである。所得とは知覚、認識、所見、見解のことである。さとりについて説くのなら、わたしはここで説かれている「智」は「知」であるべきだと考える。智は智慧であり、さとりを得るために必要なものである。このことについては第三章において関連して書く。

これまでさまざまなものを否定してきた。それは、どれもが概念であったからである。概念とは個々の事物から共通な性質や一般的な性質を取り出してつくられた表象である。しかし因縁によって時とともに移るものであり、因縁は不変ではない、固定されていない。

例えば、机をたたくという行為を二度行えば、二つの違った行為ととらえることができる。二度目は一度目に対して、たたく場所が全く一致しているのは難しい。一度たたいたことによって、机にはその衝撃で必ず何らかの変化が起きているはずである。手には一度たたいたときの痛みがある。そして一度目と二度目の間には時間差が起きている。一見、全く同じ行為、現象に思えるが、その本質では全く違う行為、現象ととらえることができる。

違った例では、仮に全く同じことを経験するとする。しかし全く同じであっても同じ現象になるとは誰も思わないであろう。一度目の経験はたとえ忘れたとしても、それが自分に何の影響も及ぼさないとは思えないし、それが回数を繰り返されればなおさらのことである。

こういった認識をしているわたしの「知」もおもしろいもので、今はこのように考えることができるが、将来にわたっていかなるときも全く同じように考えることはない。その時々の因縁によって、少々であるか多々であるかはわからないけど変化してしまうものである。空とは知も得も無いのだ。知ることも得ることも空であるなら、知って得た「所得」も空である。

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